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巫剣観察記

天叢雲剣

天叢雲剣


「はぇぇぇ………」

それは、春の陽気もなりを潜め、大気が若干の熱と湿気を孕んだ5月の末の出来事だった。
先に断っておくと、私はふだんからこんなマヌケな声を上げたりしない。
ただ、目の前の草原が、緑の絨毯と形容するにふさわしかった美しい野原が、今や炎に巻かれ、何人も近寄ることのできない煉獄と化しているのだから、それを見て腰を抜かすのも仕方がない。

「ど、どうしよう……! とりあえず水? 消防組に連絡っ!?」

火足は思いのほか早く、今にも私を巻き込んで一帯を消し炭にしてしまいかねない勢いだ。
当然、桶一杯の水でどうにかならないことなどひと目でわかる。
目前に迫る炎の壁。
こんな状況、御華見衆に入ったばかりの私にどうしろというのか。そもそも人の手でどうにかできるようには見えない。
だから、私が腰を抜かしたまま気の抜けた声を上げるだけだったとしても、誰が責められよう。
なんなら、若干死を覚悟している現状を潔しとしてくれるに違いない。

「ああ、お父さん、お母さん。私は案外がんばって生きました。世に爪痕を残せないまでも御華見衆の歯車として立派に――」

誰に聞かせるでもない末期の句が口をついて出る。
昔の人は人生五十年と言ったそうだが、全然そんなに生きてない。
やりたいこともまだまだあった気もするし、少し早すぎやしないだろうかとも思う。
しかし、もはや抗う術などないのは火を見るよりあきらかなのだ。いや、火はまさに目前に迫っているんだけど……。
そんな愚痴が口を吐きかけた時、燃えさかる炎の隙間に清廉な気配を感じた。

「あ……」

刹那、目の前の大火は嘘のように消え失せ、露わになった黒く焼け焦げた草原、その中心に彼女はいた。
苛烈かれつな眼差しで、私を見下ろすその巫剣こそ、神代三剣が一振、天叢雲剣その人である。



時は戻り、5月中頃のことだった。
休み明けの私を待っていたのは、予想外の指令だった。

「神剣の調査……、ですか?」

言われてすぐに思ったのは、神剣とは……? ということだ。
そもそも巫剣自体が既に人智を越えた、神の領域に片足を突っ込んでいるような能力の持ち主ばかりなのに、それとは別に神の剣がいるのかと。
たしかに、記紀や神話にその名を見ることはできる。
だが、それらはすべておとぎ話だと考えるのがふつうで、まさか仕事でその調査を行うことになるとは夢にも思わなかった。

「神剣って、なんでしょう?」

誰だってそう思うだろう。
だから、私が上司に同じように質問したとしても私は悪くない。
しかし、その質問を見越していたのか、それを調べるのが仕事だと答えられてしまっては、ぐうの音も出ない。

それから数日、街や森や神社や河原、噂を頼りに探し回った挙げ句が、先の草原での大火なのだ。
そして、今に戻る。



「あ、あの、助かりました。ありがとうございます」

深々と頭を下げる。
状況が衝撃的過ぎてなんと話しかければよいかわからなかったが、命を救われたのだ。なによりまずはお礼をしなければ。
しかし、彼女は私を一瞥いちべつするとこう返した。

「なんだ、人間もいたんだね」

予想外の答えだった。
そして、「も」ということは、もしかしてここには人間以外もいたのだろうか。
例えば禍憑とか禍憑とか……。

「巻き添えにならなくてなによりだよ。死ぬ必要がないなら、死ぬ必要はないからね」

おかしな日本語を使う人だと思った。
言っていることは正しいのだが、わざわざ言うことだろうか。いや、あえて2回重ねることに意味があったのか、それとも。
そこではたと気づく。
死ぬ必要がないから死ななかったのであれば、死ぬ必要があれば死なされるということではなかろうか。
真意がまるで読めないが、その言葉から強固な意志のようなものを感じる。怖い。
しかし、任務も遂行しなければならない。
まずは、本人確認をしなければ。

「あ、あの、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか? た、助けていただいたので……」

無理矢理言葉を絞り出す。
若干、言い訳がましくもあるが、もはやこうするより他に手がなかった。
なぜなら、先ほどから私に向けられた、刺すようなとも、挑発的なともとれる視線に私の精神が耐えられないのだ。

「ん? 名前?」
「は、はい、お名前を……」
「ああ。そうか、そうだね。自己紹介しなくちゃね。妾ちゃんは天叢雲剣。よろしくね、人間」

ただ言葉を交わすだけでも、畏怖や恐怖と言った感情が自然に湧いてくる。
別になにをされたわけでもないのに、今までの巫剣には抱かなかった別種の感情に、私の心が支配されていくのがわかった。
これが、「畏れ」というものなのだろうか。

「あ、ところでさ、人間」
「ひゃ、ひゃい!?」

急に水を向けられて、思わず声がうわずってしまう。

「ここって、どこなんだろう? 妾ちゃん、上野に行きたいんだけど……」

それからは案外気さくに話ができた、と思う。
私の心から畏怖の感情が消えることはなかったが、上野とはまったく関係ない場所で迷子になっていた彼女に少しだけ親近感がわいたからであろうか。
天叢雲剣に帰り道を丁寧に教えると、にこやかに礼を言い、意気揚々と反対方向に歩いて行った。
止めようとも思ったが、神の剣のすること。
きっと間違いは無いのだろうと思うことにして、私もその場を後にした。

天叢雲剣――畏怖や畏敬を抱かずにはいられない存在感は、まごうことなき神剣である。

以上、御華見衆観察方より報告