
「大丈夫だからね……!」
激しく冷たい雨が肩を打つ。
「絶対大丈夫……。あんなの、怖くないよ!」
私は背におぶった少女、ゆう子ちゃんに声をかけ続ける。幼い彼女の震えが直にこちらに伝わってくる。
ゆう子ちゃんはこの温泉街の宿屋の小さな一人娘だ。
私はとある巫剣の調査のために昨日からこの地にとどまっていたのだが、その際に泊めてもらったのがゆう子ちゃんの家だった。
2日目の朝、私は朝食をとった後に宿を出た。調査対象である巫剣の居所は掴んでいた。
――けれど出かけてすぐに雨が降り出した。
参ったな。引き返して宿で傘を借りようか。そう思いかけた時、坂道の下からゆう子ちゃんが傘を持って私を追いかけてきてくれたのだ。
その健気さに礼を言い、傘を受け取ろうとした……その時だった。
温泉街の一角に招かれざる客――ああ、我ながらなんて使い古された表現――が現れた。
グオオオオッ!!
禍憑だ。
なんという不運? 否、そうとも言えない。
そもそもこの地に禍憑出現の予兆ありとの予知がなされたために巫剣が派遣されていたのだから。
□
「だけどこんな、なにも今出なくても……!」
私は慌ててゆう子ちゃんを背負って走った。背後に獰猛な禍憑が迫ってくる。
「お姉ちゃん……」
「大丈夫! こんなのぜ~んぜん怖くないよ~」
ゆう子ちゃんを不安にさせないように戯けて見せる。
けれど、これはあながちやせ我慢というわけでもない。
私は信じている。
「お姉ちゃんね、知ってるの。こういう時、絶対に駆けつけてくれる心強い味方がいるってこと」
「味方……?」
「そう。災難や痛みや絶望から人を守る刀」
「どうしてわかるの?」
「今までたくさん、本当にたくさんのそういう存在を見守ってきたから」
禍憑は、もう手を伸ばせば私とゆう子ちゃんの背中を引き裂ける距離にまで近づいてきている。
でも、大丈夫。へっちゃら。怖くない。
その時、雨雲を裂くように、頭上で刃が光った。
「そこまでですよ~」
一閃。
「わあっ」
ゆう子ちゃんが一瞬、すべての恐怖を忘れて感嘆の声を上げる。
ほら。ほらね。
来てくれた!
顔を鋭く斬りつけられた禍憑が苦しげにうめき、足を止めた。
「こんなにも心安らぐ温泉地を荒らし回っただけでなく、女性や幼い子供を追いかけ回すなんていけない子ですね~」
私と禍憑との間に可憐に降り立ったのは、裾の長い黄金色の着物に身を纏った美しい女性だった。
彼女こそが、今回私が調査のために追っていた巫剣・富田江だ。
「これ以上の狼藉はこのわたくしが許しませんよ」
富田江は長い裾を翻し、目にも止まらぬ早技で禍憑を撃退、殲滅してしまった。
□
「もう大丈夫ですよ~。2人とも、大丈夫でしたか?」
「は、はい!」
と、富田江に答えた瞬間私の腰が抜けた。
「お姉ちゃん、やっぱり怖かったんだね。よしよし」
子供になでなでされてしまった。
「ごめんなさい。他の場所でも禍憑の相手をしていて少し遅くなってしまって。でも怪我がなくてなによりでした~」
富田江は見る者の心をほぐすような優しい微笑みを向けてくれる。それは適温の温泉さながらの癒しだった。
強く、美しく、心優しい。
「憧れちゃうなぁ」
思わず気持ちが口から溢れてしまう。
「嬉しいことを言ってくれますね。危険があればいつでもお姉さんにお任せ、ですよ。ではわたくしはそろそろお暇しますね~」
もう周囲に危険がないことを確かめると、富田江は丁寧に会釈してその場を立ち去ろうとする。
と、そんな彼女をゆう子ちゃんが呼び止めた。
「あ、待ってお姉さん! 雨でずぶ濡れだよ。よかったらウチの温泉に浸かって行ってください!」
「あら、そんなお気遣いなく……」
「いいえ! 命の恩人ですから! ここでなにもせずに帰しちゃったら母ちゃ……女将に叱られます! おんぶしてくれた怖がりなお姉ちゃんも体冷えちゃったでしょ? お背中流しますよ!」
確かにこの雨は体に堪える。全身も泥だらけだ。ぜひとも汚れを洗い流して体を温めたいところだった。
「えっと~……」
ところが誘われた富田江は先ほどまでの快い対応とは打って変わって、どうも乗り気ではない様子だ。
「その~……温泉……ということは~、やっぱり脱ぐ……んですよね?」
などと私に尋ねてくる。
「脱ぐ? 服ですか? そりゃまあ温泉ですし」
「服というか~…………履き物」
「履き物? 土足というのは聞いたことがないですね。ふつう、脱ぎます」
なにか躊躇うような理由でもあるのか、やたらともじもじしている。温泉には惹かれるけれど、人と入るのは、はばかられると言った感じだ。
「なにも脱がずに入るのはダメ……ですかね~?」
「も~、よくわかんないけどとりあえず宿行こ!」
痺れを切らしたゆう子ちゃんが富田江の手を引っ張り始める。富田江は明らかに困っている。
「ほら、一泊だけ! 一泊だけでいいから! お食事つきだから!」
いつの間にか宿泊する運びになっている。
「ま、待って! ダメよ! ダメなの! わたくし……そんなっ!」
「半額! 半額でいいから!」
さすが温泉宿の娘。商魂たくましい。
しかし富田江はとうとうそんな娘の猛追をも振り切って走り去ってしまった。
「ご、ごめんなさ~い! わたくし今日は帰ります~! お達者で~!」
去り際まで丁寧な人だ。
「ああ……行っちゃったね」
「チッ」
今この子、舌打ちした?
「それにしても、どうしてあんなに温泉を嫌がったんだろう? 任務とは言えせっかく温泉街に来たんだから少しくらい浸かっていけばいいのに……」
なにかよっぽどの秘密を抱えているということだろうか。
観察方としても気になるところだ。
以上、御華見衆観察方より報告