
上野の街の路地裏に、神出鬼没の可憐な女スリが出没するらしい。
目撃者によれば、その手技はまるで居合の如き一瞬の出来事。
スラれた本人には、風が頬を撫でるがごとくの感触しかなかったそうだ。
僕は路地裏の材木置き場の陰に潜んで、その女スリが現れるのを待った。
と、向かいから、少し派手な着流しの見目麗しい少女が、しゃなりしゃなりと歩いてくる。
反対から歩いてきた堅気とは言い難いモヤシのような風情の男は、
僕と同様にその少女の仕草に目を奪われた。
少女が微かに微笑んだ。
瞬間――微風が吹いた。
そして、少女は変わらずにしゃなりしゃなりと歩き去る。
モヤシ男は熱にほだされたように、少女が去るのを見つめていた。
すぐに少女の後を追ったが、角を曲がったところで見失ってしまう。
あの身のこなしは間違いない、彼女は巫剣だ。
手元の観察帳によれば、彼女は名門粟田口の骨喰藤四郎である。
だとすれば、名門の巫剣がスリをしているなんて、これは一大事だ。
もしも、錆が溜まって悪行に身を染めているとしたら――。
それから半時後、僕は彼女を見つけることができずに途方に暮れることになった。
やむをえず、僕は一息つこうと上野の駅前の屋台で、みたらし団子を買った。
すると、運よく屋台前の大通りで骨喰藤四郎を見つけることができた。
意を決して、背後から声をかける。
そして、巷を騒がす女スリは君ではないか、と小声で問いかける。
骨喰藤四郎は黙ったまま振り返らない。
「だったらどうだって言うんだい?」
君は巫剣だろう? 悪事に手を染めちゃいけない。巫剣は清い存在なんだ、と僕は言う。
骨喰藤四郎は振り返ると、いきなり僕の頬を引っ叩いた。
「確かに、あたしは巫剣。骨喰藤四郎だよ。でも、あんたにあたしの何が分かるって言うのさ」
威丈高に堂々と胸を張る彼女。
巫剣の心に負の感情が溜まると錆憑という異常な興奮状態になってしまう。
僕はそれを未然に防ぐ仕事をしている、だから巫剣の悪事を見過ごすことはできない。
「あたしはね、筋が通らないことは絶対にしない。自分の心に従うだけ」
と、彼女は近くの停留所に待っている子連れの中年女性に手を振った。
「おまちどー。はい、これ。もうスラれるんじゃないよ!」
彼女は先ほどスった財布を、中年女性に放り投げる。
そして、僕の方を見て、意地悪そうに微笑む。
「あたしは迷子になっちまった財布を持ち主のところに返してやっただけさ。これが悪事ってんなら、どうぞふんじばりなよ」
悪事に悪事で返す、それはいけないことなのだけど……。
僕はホッとした。巫剣はやはり清い存在なのだと。
「それと、さっきは叩いて悪かった。
あんたはあたしを心配してくれたんだろ? ありがとね」
骨喰藤四郎は去り際に、僕の耳元で囁いた。
そして、あの人混みをどうすり抜けて行ったのか、振り返った時には彼女の姿はどこにもない。
まるで猫みたいだ……と惚けていると、少し先の人混みの中から、しかし耳元で聞こえるような声がはっきりと聞こえた。
「これはあたしを疑った迷惑料だよ。ごちそーさま」
気づけば持っていた団子の玉が全部無くなり、手には串が残るのみ。
見事なものだ。
この串は証拠になるんだろうか……。
そんなことを思いながら、万代橋を渡って帰路についた。
観察方報告。
骨喰藤四郎は素行に問題あり。されどその性質に悪意なし。