私はバカだ。
学歴の問題ではない。いや多少学が足りない部分があることも否定はできないけれど、それ以前の問題で――多分愚かなのだ。基本的に。根本的に。
目的までの最短距離を算出し、達成のために必要なことをし、不必要なことはせず、時に根回しもして人を上手に動かす。
頭のいい人というのはきっとそういう人のことだ。
私にはそういうのがない。
だからいつも上司から叱られる。失敗をする。それでも馬耳東風でケロッとしていられるならまだマシで、私の場合しっかりと落ち込む。そのくせ失敗を繰り返すからタチが悪い。
今も、私は私の愚かさゆえに任務の遂行達成が危ぶまれるような状況にある。
「テメェ人の話聞いてんのかコラ!」
他ならぬ私に向けて怒鳴り散らしているのは、いつ手が出てきてもおかしくない、明らかにカタギではない風体の男。
「横から口出ししてきやがって! なんだぁ? 俺がイチャモンつけてこの店の品かすめ取ろうとしてるって言いてえのか?」
どうなんだと男は凄む。
ただ、どんなに凄まれても「そんなつもりはありません」とは言えなかった。実際私はその場面をはっきりと目撃している。
反物屋の主人に突っかかり「丸く収めたきゃそっちの羽織をよこせ、帯をよこせ」と男はやりたい放題。それがあまりにひどいのでつい見かねて、私は大切な任務の途中にも関わらず揉め事の渦中に割って入ってしまったのだ。
新たな巫剣の動向を秘密裏に探り、調査しなければならなかったのだが、もうとっくに対象も見失っている。
私はバカだ。
「あのですね……失礼ですが誰がどう見てもあなたの言い分は理不尽で……」
「なんだとコラ! 俺は立派な客だよ! その俺に主人がイラつく態度をとりやがったから道理ってもんを説いてやってんだろうが!」
会話にならない。私が女だから――というよりも、この手の男は自分のメンツを第一に考えるから、はなから耳を傾けるつもりがない。小娘相手に引き下がるわけにはいかないのだろう。
店先に人通りはそれなりにあるものの、加勢してくれる人はいなかった。当然だ。誰だって進んでこんな揉め事に首を突っ込みたくはないだろう。火事と喧嘩は江戸の華とはもはや昔日の価値観なのだ。
弱ったと天を見上げる。
これでも私は御華見衆観察方として様々な訓練を受けている。愚かは愚かだが、どんなに凄まれたって一般人に遅れをとるようなことはまずない。
とはいえ、立場上往来で大立ち回りを演じるわけにもいかない。だからなんとか話し合いで解決したかったのだが、それは難しそうだ。
困った。弱った。考えなしにではなく、ちゃんと考えてから首を突っ込むべきだった。
「こちらのお店、随分景気がよいのですね」
すぐ隣から――声がした。
見ると私の横にいつの間にか女性が立っていた。楽しそうにこちらを見ている。
栗色の髪と緋色の瞳がとても美しい、こちらの目を強く引く女性だった。
「あ……なたは」
愚かな私でも、その人物をよく知っている。
本日の調査対象である巫剣、典厩割その人だ。もうどこぞへ行ってしまったと、そう思っていたのだけれど。
「今度はなんだ? 女子供がしゃしゃり出ることじゃねえぞ!」
男の矛先がすぐに典厩割へ向けられた。
「あら、わたくしはこちらの反物屋さんが盛況なようなので少し覗いてみただけですよ」
「盛況だぁ?」
「だって、お店の前でこんなに元気なお猿さんが客の呼び込みをしているんですもの。いやでも足を止めてしまいますよ」
「あ……?」
「え? だってあなたたち、お店に雇われた芸人さんじゃないんですか? そちらのお嬢さんが猿回しで、あなたがお猿さん」
「…………さ」
私よりも一瞬早く、店の主人が吹き出す。
猿呼ばわりされた男の顔は猿のように真っ赤になった。
「あなた、見た所袖にも懐にもお財布を持っている様子がないですね。それなのに立派なお客さんなんですか? それにさっきからよこせよこせと指差している品、どれも狙ったみたいに値の張る物ばかり。それも全部女物」
「う……そ、それがなんだって……」
「いえ、ただひょっとして、意中のお相手に貢ぐために強請りを働いている、そんなどうしようもないお猿さんなのじゃないかしらと思っただけです」
「テ……テメ……!」
その反応は典厩割の指摘が図星であることを見事に証明していた。
「もう勘弁ならねぇ!!」
「はぁ……勘弁。勘弁ですか~……って、ウルセェぞこの発情猿がッ!! 猿は猿らしく頭下げて馬でも引いてろボケ!!」
……私は今、幻聴を聞いたのだろうか?
今の口汚い罵りは一体誰の口から発せられたものだったのだろう?
思わず我が耳を疑ったが、どう見てもどう聞いても、典厩割が発した言葉だった。
「テ……テメェ今なんて言っ」
「人様からぶんどった物を与えられて喜び惚れる女がいてたまるかァ!! そんなことも理解できてねぇようだから猿だと言ったんだ猿!! 」
その場の誰もが、ただ呆然としたまま典厩割の美しい唇の間から猛毒のような言葉が飛び出るのを眺めていることしかできなかった。
私はさっき観察対象である典厩割のことをよく知っていると言ったが、私は彼女のことをなにも知ってなどいなかった。
散々な言葉をぶつけられて完全に返す言葉を失った男の顔は、もはや赤を通り越して紫色に達しつつあった。
やがて男は喉の奥で「コロス!」と太く唸ると、両腕を伸ばして力任せに典厩割へ襲いかかる。
けれど――彼は典厩割に触れることもできず、次の瞬間には脳天から地面に叩きつけられていた。
典厩割が鞘に納めたままの刀で男の足を軽々とすくい上げてしまったのだ。
男はその場で大の字になって伸び、周囲の人々が歓声を上げた。
◇
「あ……あのー……」
店の主人から散々お礼を言われてからようやく解放された私は……典厩割と並んで街を歩いていた。
告白すると、彼女の啖呵を間近で聞いてしまったことで私はちょっぴりビクビクしていた。それに加えて観察対象の巫剣と積極的に接触していいものかと迷ってもいた。
「ありがとう……ございます」
結果、他に言うべき言葉が見つからなかった。
「こちらの事情に巻き込んでしまってごめんなさい。私って本当におろ――」
「愚かな人……ですか?」
「え?」
一瞬心の中を読まれたのかと思った。
「あなたは観察方なんですよね? わたくしを尾行していましたよね?」
やっぱり全部バレていた。
「あなたの行動によってあのお店の人は救われたわけですから行動自体は悪いことではないと思います。でも観察方のあなたが任務途中にあんな道理の通じない相手と簡単に揉め事を起こしてしまっては、まともに仕事はこなせませんよ」
「で、ですよね」
「素早く観察方の応援を呼ぶとか、積極的に周囲の人に助けを求めるとか、他に切り抜け方もあったと思います。今後はそういう立ち回りも取り入れていけば、あなたはあなたのいいところを殺さずにきちんと任務も遂行していけると思いますよ」
「です……ねー」
「……って、ちょっとうわの空ですか? ……どこ見てるんですか?」
話を続けている典厩割には申し訳なかったけれど、私は足を止めずにはいられなかった。
見かけてしまったのだ、連なった居酒屋と居酒屋の間、人通りの少ない路地で女の人が男に絡まれているのを。
恋仲同士の私的な揉め事かもしれない。けれど、どうもあの男はやたらめった酒に酔っ払っているように、私には見えた。悪酔いしているのかもしれない。
だとしたら……。
「すみません典厩割さん! 私……その、ちょっと行ってきます!」
「待ちなさい! あなた、さっきあんなことがあったばかりなのにまた進んで揉め事に首を突っ込む気ですか? 観察対象のわたくしを放り出してまたですか?? そんな道理が……」
「ごめんなさい。自分でもつくづくバカだと思います。愚か者です。でも、私行きます」
他に言いようがなかったので、思ったままを伝えたる。すると典厩割は言いかけていた言葉を止めて、物珍しそうに私の顔をまじまじと見つめてきた。
「あなたって人は……」
「あ、あの……」
「わたくし、道理を知らないバカな人って許せないタチなんです。その点、あなたは確かにバカで愚かです。……でも」
典厩割は息のかかるような間近でとびきり魅力的な微笑みを浮かべた。
「バカはバカでも、あなたは優しいおバカさんです。そう言う人に限って、わたくしは嫌いじゃありません」
その笑顔の魅力に魂が抜き取られかけた。
典厩割は惚けている私の手を取って引く。
「ほら、行くんでしょう。また揉め事に首を突っ込みに」
生真面目さと愛嬌の入り混じった表情で、「仕方がないから少しお付き合いします」と彼女は言った。
以上、御華見衆観察方より報告