井上真改はとても真面目で真っ直ぐな性格の巫剣だという。
加えて彼女の容姿は艶やかにして勇ましく、その美貌には芍薬も牡丹も顔を背けるだろうと言われている。にもかかわらず井上真改自身はそのことをまるで鼻にかけず、常に謙虚さと自制心を持って日々の任務を務めている――のだそうだ。
「……完璧、よね〜」
私と違って。
私は今回の調査対象である井上真改を訪ね、きつい勾配の山肌をえっちらおっちらと登っていた。山の空気は澄み、空は抜けるように青い。
「そんな完璧な井上真改がどうしてまた……」
こう言ってはなんだが、ここはどう見ても辺鄙な土地だ。情報を頼りにやってきてはみたものの、さっきから通行人1人、蛇の子1匹見当たらない。あ、季節柄蛇はまだ冬眠中か。
ともかく井上真改がこんな場所でなにをやっているのか、任務を別にしても興味が湧いてくる。
あれこれ考えながら進むうち、いつの間にか周囲には竹林が広がっていた。
「はふ……ひぃ……はひー!」
登っている山はそれほど高くはないはずだけれど、斜面は想像以上に急だった。とはいえ、あちこちに生える竹につかまりながら登ればなんとかなりそうだ。
という考えが油断の元だったのだろう。
「あ!」
竹を掴んでいた手が滑った。美しい竹はその表面もつるりとしたものだ。
途端に重心が崩れて体が後ろに大きくのけ反る。
「わ! わ! わ!」
山肌を一人転がり落ちる自分をひと足早く想像する。
「危なっ……!」
「おっと」
けれど私の体は背後に倒れることなく、柔らかななにかに受け止められて事なきを得た。
「平気でござったかな?」
「ぎゃっ」
「ぎゃ?」
思わず口を押さえる。転びかけた私を受け止めてくれたのは、あろうことか井上真改その人だった。
本人に気づかれないように遠くから動向を調査する予定だったのに、いきなり最接近してしまった。私はどうしていつもこう……。
「い、いえなんでも。ありがとうございます。助かりました」
こうなれば得意の「一般人偽装作戦」に切り替えるしかない。
「いや、下の方から姿が見えましてな。女子にこの山はきついだろうと思い、なんとなく注意して見ていたのですが、それが幸いしました。あなたに大事がなくてなによりです」
井上真改は明快な口調でそう言うと、少し照れ臭そうに笑った。
「……すき」
「はい?」
「いえなんでも」
いけないいけない。あまりにも卒のない男前な対応に私の中の乙女がクラッときてしまった。
「申し遅れました。拙者は井上真改。世を忍ぶ正義の剣でござる」
「しの……? は、はあ」
美人によくわからない自己紹介をされた。
「忍者の人ですか?」
「そう思っていただいても差し支えはござらん」
そう言って井上真改は山の斜面を登り始める。自然と私もその後を追う形になった。
「そんなあなたがこんな山でなにを?」
自分のことは棚に上げて尋ねてみる。彼女ほどの巫剣がわざわざこんな場所にいるとなると、あるいはこの近辺に凶暴な禍憑が出没しているのかも知れない。
「実は拙者、こう見えて世に蔓延る邪悪な存在を斬り伏せる大切な忍務……ならぬ任務を負っているのでござるが」
「ではその大事な任務を……」
「いやー、それが任務とは全く関係ござらん」
「え」
「今日は少々古い約束事を守りに来たのです」
「約束……?」
途切れ途切れに会話をしながら進む。やがて私たちは尾根の天辺に到達した。私はすっかり息が上がっていた。
「あの、約束っていったい……」
「あちらです」
ここへ来るまであえて返事を保留していたとでもいうように、井上真改は尾根の反対側を指さした。
その先、眼下に広がっていたのは30棟ほどの民家が立ち並ぶ小さな山間の集落だった。
「村……ですか」
こんなところに村があるなんてちっとも知らなかった。
「あの村はもう随分昔からあそこにあるのです。拙者、その昔この近くでの任務で不覚をとり、邪悪な存在に追われて窮地に陥ったことがあったのでござるが、その時拙者を匿い、手厚くもてなしてくれたのがあの村の人々だったのでござる」
「恩のある村なんですね」
「その通り。無事窮地を切り抜けた拙者はなにか村の人々に恩返しがしたいと申し出た。なにもいらぬと言われたがそれでは拙者の気が済まぬと無理を言って、なにか悩み事はないかと尋ねた。すると人々は我々が今立つこの山を指して言ったのです。この村には他所へ売れるような物がなにもなく、年中貧しい。せめてあのハゲ山に木材として売れそうな木でも生えていてくれたら少しは違っただろうに、と」
「ハゲ山? この山がですか?」
私は改めて自分のいる山を見渡した。もちろん、あたりは様々な木々で茂っている。竹が大部分を締めてはいるけれど。
「当時はなにも生えていなかったのですよ。そして大雨が降るとしょっちゅう山崩れを起こして難儀していたそうです。村人にとってはまさに百害あって一利なしのハゲ山だったのでござるな。そこで拙者は町から種を仕入れ、その年から少しずつ山に植えることにしたのでござる。無論、気を遣わせては申し訳ないので村の人々には内密にしているのですが」
と、話しながら井上真改は懐からモソっと麻袋を取り出した。袋の中から彼女が摘み上げたのはなんらかの植物の種だった。
「日頃の任務の合間ゆえなかなか一足飛びにとはいかないけれど、それでも年々山の景色は変わっていき、今ではこの通りでござる」
「え? え? それじゃ今登ってきた……この山丸ごと……あなたが1人で何年もかけてコツコツと植林を……? それであんな竹林を生み出しちゃったんですか!?」
「拙者はできることをしているだけでござるよ」
竹の成長は早いとは聞くけれど、そもそもこれだけの範囲にあれだけの数の物を植えていくだけで気が遠くなりそうだ。
けれど、私には1つ気になる点があった。
「あの、ところで村の人達はこう言ったんですよね? この山に木材として売れそうな木でも生えていてくれたらって」
「さ……左様でござる」
井上真改はなんだか気まずそうに私から目を逸らしている。
「それで植えて回ったのが竹なんですか?」
「えっと……」
「こう言っちゃうとあれなんですけど、どうせ植えるならもっと他にも……杉とか檜とか」
「じ、実はその……拙者、長年ずっと勘違いをしておりまして……」
「まさか」
「そのまさかでござる……。杉の種と思って植えていたのが実は竹の種だったというわけで……」
井上真改は美しい顔を真っ赤にさせ、しょんぼりしている。
「えっと……ふ、普通もっと早い段階で気づきません……? 決してあなたを責めているわけじゃなく……」
「いつも無我夢中で植えてまわっていたもので……。へ、変だなーとは思っていたでござる! 毎年竹の子がやけに多いなーとか、去年こんなところに竹なんて生えていたっけ? とか」
「それにしたって!」
「植えども植えども、やはり杉はそう簡単に根づいてはくれないものでござるなーと……。でも数年も経てば必ず生えてくるはずと信じて……」
「拙者はできることをしているだけでござるよ」
「い、言わないでくだされー!」
ちょっといじめてしまった。反省。
でも、こんな盛大な勘違いを見せられてしまったら突っ込まずにはいられない。
「拙者、肝心なところでこうなんでござる! 詰めが甘いというか、大切なところで取りこぼすというか……。だから巫剣としても後世に語り継がれるような逸話も残せず……地味だなんだと言われ……」
「あああ、ごめんなさいごめんなさい! 責めるつもりはなかったんですぅ! 井上真改さん、あなたは立派ですよ。立派なことをしているんです! 世間の誰も見ていなくても、こんなヘンテコな失敗をしてしまったとしても、あなたの真っ直ぐな心はきっといつか報われる……はず! です! 多分!」
「あ、哀れむでない! でもここ何十年かは心を入れ替え種も入れ替え、多種多様な樹木を植えるようにしているので! 挽回するために!」
「まあ確かに、こうして見ると集落側の斜面は割といろんな木が立派に生えてますね……って、え? 今、ここ何十年って言いました!?」
「言いましたが」
「ここ何年か、じゃなくて? 昔の約束って……一いったい何年前の……?」
「はは。竹ならいざ知らず、その他の木々は芽吹いたとて1年や2年では大きくなりませんよ。それに最初の10年ほどは山の土壌をよくするための準備で大変でござったし」
「土壌から!? あなたって人は!」
「え? え? なんだかわからないけれど、お、怒らんでくだされー!」
気づけば私は地べたに座り込んでいた。
怒る? とんでもない。
この人、とんでもない人だ。真面目とか実直とか謙虚という範疇を大きく超えている。
たった一度の恩を返すために何十年もかけて山1つを蘇らせるなんて。
だいたい最初に恩を受けた村人はもう寿命でこの世にはいなくて、すっかり代替わりしているんじゃないだろうか。
いや、彼女には、井上真改にはそんなことは関係ないのか。
「あのー。だ、大丈夫でござるか?」
「井上真改さん」
「は、はい」
私は両手を皿のようにして彼女の前に差し出した。
「種、私にも分けてください」
「種を?」
「さっきあなたに助けてもらったし、私も恩を返します」
そうして私は日没まで種植えを手伝った。
□
季節は巡り、気がつけばもう盛夏となっていた。
先週、関東を中心に大雨が降った。物凄い雨量だったらしい。
私はというと日々の任務にてんてこ舞いで、大雨への文句も、そして井上真改と過ごしたあの日のこともすっかり忘れていた。
井上真改の調査報告はとっくに提出し終えていて、改めて見返すようなこともなかったのだけれど、ある日の新聞の小さな記事が目に留まったことで、私は井上真改に関しての「追記」をしないではいられなくなった。
新聞記事にはこう書かれてあった。
――その山は古くから樹木が根づきにくく、大雨のたびにあちこち山崩れを起こして谷の集落にも被害を及ぼしていたが、此度の雨では村の周囲に限って山崩れはなく、被害も一切出なかったとのこと。村の住人は「律儀で奥手な娘様のおかげです」と語り、山の方を向いて手を合わせていた。なんでも、娘様とは山の神様のことで、古くから村ではそういう習慣があるのだそうだ。
樹木の豊かな山は崩れにくくなる。
井上真改がそのことを知っていたのかどうかはわからない。多分狙っていたわけではないだろう。それでも彼女が人知れずコツコツと行ってきた恩返しは、数十年――もしかしたら百年の時を経て村を救ったのだ。もちろんそんなことも知りもしないかも知れないけれど。
井上真改。彼女は今日もまた御華見衆の任務の合間を縫ってあの森を広げているかも知れない。
井上真改さん。あなたの真っ直ぐな心、報われましたよ。
以上、御華見衆観察方より報告