
「鶴の恩返し」という民話がある。
この国で子供だった経験のある人間ならば大抵の者は耳にしたことがあるであろう、有名、著名、王道な昔話だ。
おじいさんが罠にかかった鶴を助ける。
助けられた鶴が美しい女の姿で恩返しにくる。
鶴の織った布は高値で売れ、おじいさんはウハウハ。
土地によってはおじいさんが若者だったりする場合もあるというが、とにかく三行でまとめるとそんなお話だ。
いい話だ……とは思うのだけれど、一つ引っかかる点がある。
お話の中の鶴は自らの羽を抜いて機織りをする。
鳥にとって羽は空を飛ぶために不可欠な物。とても大事な物だ。
そのことを考えると、いくら恩返しのためとはいえ、その羽をことごとく犠牲にして機織を続けた鶴の執念が恐ろしくも感じられてくる。
――鶴丸国永について至急調査せよ。
観察方として新たな任務を受けた私はその日、めいじ館へ足を運んだ。
客として茶房に入り、まずは適当に注文してから周囲を探る。
午後の茶房は他の客で溢れ、ここで働く幾人かの巫剣がせわしなく動き回っていた。
肝心の鶴丸国永の姿はまだ見当たらない。
「どんな巫剣だろう……」
出発前に同僚達がヒソヒソと囁き合っていた言葉が不意に思い出される。
――決して鶴丸国永に感謝されてはならない。
あれはどういう意味だったのだろう。
「それ、綺麗だね~!」
そのことについてもう一歩踏み込んで考えようとした時、耳元で声がした。
とっさに椅子から腰を浮かせて振り返ると、そこに白い衣装に身を包んだ美しい女性が立っていた。
「その巾着、綺麗だね~。うんうん、美しきことは美しきかな!」
彼女、鶴丸国永は私の持つ金魚柄の巾着を指してそう言った。
めいじ館を訪れるにあたって私は素性を隠すために庶民の扮装をした。この巾着はその際に購入した物だった。
「ありがとうございます。私も気に入ってるんです」
調査対象から声をかけられたばかりか背後まで取られてしまった……。
私は内心動揺していたが、なんとかそれを隠すことに成功した。
私の答えに満足したのか、鶴丸国永はにっこり微笑むとそのままスルスルと私の向かいの席に座ってしまった。
テーブルに肘をつき、じっと私のことを……というよりも、私のかんざしを見つめてくる。
「えっと、あの……」
「あたし、鶴丸国永。綺麗な物に目がないんだ~」
「そう……、なんですね」
「あ、違うよ。ちゃんと目はあるよ。ほらここに。右目と左目」
鶴丸国永は自信満々に自分の両目を指差して見せる。不思議な輝きの、水晶のような瞳。
……色んな意味で独特な巫剣だ。
「はい……。ありますねえ」
「そうなの。ちゃんと見る目があるの! 綺麗な物とそうでない物を見極める目」
「お目が高いってわけですね」
調査対象と相席をして私は一体何をしているんだろう。
いや、逆だ。これは絶好の機会だと捉えるべき。
この偶然を利用して鶴丸国永と親しくなれば、労せずして彼女について様々なことを知ることができる。
私は努めて親しげな調子を作り、会話を続けることにした。
相手を知るにはまず相手が何について関心を持ち、何に喜ぶか知るべし――だ。
「鶴丸国永さんは綺麗な物が好きなんですね。その置物も綺麗で素敵です」
「でしょでしょ! このくらいの物でないとあたしには似合わないんだ~! お姉さんもあるよ! 見る目があるよ~!」
枕詞だけでいきなり大喜びされてしまった。
鶴丸国永はまるで長旅の荷物を下ろすかのように、その豊かな両胸をテーブルに乗せてこちらに身を乗り出してきた。
どうやら彼女は自分自身の美しさに確かな自信を持っているようだ。
「綺麗なものは~いいよね~。美の命は短く儚いの。だから?出会ったその瞬間を大事にしなきゃ」
「は、はあ……」
美について語りながらも、彼女はしきりにチラチラと私の手元の巾着に視線をやる。
「あの、この巾着が……」
「えっ? くれるの? いいの!?」
「ええっ!?」
まだ何も言っていないのだが、鶴丸国永はテーブルの上に全身を乗せてこちらにずいっと近づいてきた。
「実はあたし、つい昨日お気に入りの巾着なくしたばっかりだったの! その……ちょうどその巾着と同じ柄で……」
「そんな事情があったんですね」
この強引さには驚かされたが、しかしここで恩を売っておけばこれからの調査も楽になるかもしれない。
私は巾着を鶴丸国永に差し出した。
「そういうことでしたら、お近づきの印にどうぞ」
「本当にくれるの!? わあ~!! ありがとう! 綺麗! お姉さんの心も綺麗!」
鶴丸国永は瞳を輝かせ、巾着に頬ずりして喜ぶ。
ここまで感謝されると少し後ろめたい気持ちにもなってくる。
「こんなに良くして貰って……あたし……どうしよう」
私の後ろめたさなど気づきもしない様子で、鶴丸国永は熱に浮かされたような表情のまま何やら呟いている。
なんだか様子がおかしいようにも見える。
ともかく、この辺りが引き時かな。
ここまではうまく行ったけれど、初対面であまり踏み込みすぎるのは危険だ。今日はここで一旦引いて、後日また偶然を装って接触しよう。
私はお会計を済ませると席を立った。
「鶴丸国永さん、今日は楽しかったです。私はそろそろ……」
「そうだ、返さなきゃ……うん」
「え?」
彼女はまだ独り言を言っている。
「これは恩なんだ。うん。絶対恩なの。だから……恩は……返さなきゃ」
「鶴丸国永さん?」
「えっ? なに?」
「あの、私そろそろ行きますね。またどこかでお会いできると嬉しいです」
「うん……そう……逃さないから」
最後に不穏な言葉が耳に入った気もしたが、最終的にはにこやかに挨拶を交わし、私達は別れた。
その夜、私はある意味恐怖に怯え、自室のすみで震えることになった。
「お姉さん、返しに来たよ~!」
「鶴丸国永さん!? ど、ど、ど、どうしてここに! どうやって家が……!」
真夜中、突然寝室の障子の向こうに人影が浮かび上がったかと思ったら、容赦なく障子が引かれ、鶴丸国永が乗り込んできたのだ。
眠っていた私は完全に虚を突かれ、腰を抜かしてしまった。
鶴丸国永の白く長い髪と着物が庭から吹き抜ける夜風に吹かれて艶やかに揺れる。
「必死にお家を突き止めて、返しにきたの!」
「返しに来たって……一体何を」
「決まってるじゃない。巾着をくれた”恩”を返しに来たんだよ~!」
鶴丸国永は妖艶に微笑み、赤い舌で唇を舐める。
恩? 恩ってなんだっけ? 「復讐」とか「仇討ち」の類語じゃないよね?
「さあ、返すよ~! 徹底的に返すよ~!」
「待って待って! ちょ――」
「ふふふ……さぁ……一生忘れられない恩返しを…………」
「ひいいいいぃぃ!!」
私は布団から這うように抜け出し、廊下を駆け出した。そのまま庭へ出て向かいの民家の塀に登り、全力で逃げた。
ちらりと振り返ると、とてつもない速度で追ってくる鶴丸国永の姿が見えた。
「ふっふっふ! あたしの恩返しから逃げられるなんて、思わないでよねッ!」
「い、嫌あああああァァァ! そそそ、その恩、なかったことにしてくださいぃぃぃぃぃぃ~~~!」
果たして私は鶴丸国永の執念の恩返しから逃げ切ることができるのだろうか。
いや、逃げ切らなければならない。
そして無事逃げ切ることに成功した暁にはこの報告書を上司へ提出し、後世のための教訓を残したいと思う。
――鶴の恩返しから逃れられると思うな
以上、御華見衆観察方より報告