トップへ戻る

巫剣観察記

高麗鶴光忠

高麗鶴光忠

人目を忍ぶ隠密行動、地道でありながら時には危険も伴う情報収集。そういった仕事に進んで飛び込もうという人材が少ないのはうなずける。
要するにここのところの人手不足のせいで観察方は日々大忙しだった。
当然そのしわ寄せは私に巡ってくるわけで、その日も寝不足と栄養不足が祟ってヘトヘトの状態で新たな調査任務に赴いていた。
めいじ館の茶房へ辿り着いたのはもう夜も遅い閉店間際のことで、店内は随分閑散としていた。

「はぁ……」

女性新聞記者の扮装で正体を隠し、窓際の席に座る。体を休める間もなく私は店内を見回し、調査対象を探した。
いた――。
つい最近、めいじ館へやってきたという高麗鶴光忠だ。
彼女は客の去ったテーブルから食器類を下げている最中だった。
もうじき閉店だからなのか、客入りが少なかったからなのか、他に店に出ている巫剣の姿は見られなかった。厨房には誰かいるのだろうけれど。
そうこうしていると私の他に唯一居残っていた西洋紳士も席を立ち、退店していった。

「ありがとうございました」

高麗鶴光忠の声がこちらの耳に届いてくる。心地いい響きだ。
とうとう店には私1人きりとなった。

「いけない……いつまでもジロジロ見ていちゃ不審に思われる……。なにか注文しないと……」

やはり疲れで頭が回っていない。

「ありゃお客さん、お待たせしてごめんなさいね!」

高麗鶴光忠が私に気づいてパタパタと近づいてくる。彼女が歩くたびに美しく結い上げた黒髪が馬の尾のように揺れた。

「いえ、私も無愛想に入店して、勝手に座ってしまったので……」
「いいえ~。今日はお店うち1人で、気が回らんで申し訳ないです。なににしましょう?」
「あ、じゃあコレと……それから温かい紅茶を……」
「はい」

注文を取ると高麗鶴光忠はこちらに柔らかく微笑んでから店の奥へと下がっていった。
あ――。
その笑顔がやけに暖かく胸に染みて、私は勝手に癒されていた。お腹が空いている時に砂糖をひと舐めしたような、ささやかな充足感。不思議な感覚だ。

「お客さん、窓際は冷えるでしょう。こっちへどうぞ」
「え?」

5分後、だしぬけに声をかけられて振り向くと、店の奥のテーブルから高麗鶴光忠が私を呼んでいた。

「え? いいんですか?」
「ええんですよ。今日はもう閉店じゃし、他にお客さんもおらんけぇね。来んさい来んさい」

ああ~……。
その茶目っ気のある手招きに文字どおり誘われて、私は彼女の示した席へ移動した。そのテーブルにはすでに私の注文した品が完璧な形でそろえられていた。

「いい香り……」

その時、私の背後、窓の外で雨が降り出した。

「ありゃ、いつ崩れるか思うとったけど、とうとう降りんさったね」
「ですね。山茶花梅雨さざんかつゆだ」

私がぽつりそう言うと、高麗鶴光忠は感心したように手をポンと叩いた。

「お客さん、博識じゃね! 帽子もよう似合うとってですし、学者さんかなにかですか?」
「いえ、私は記者の端くれなんですよ」
「記者さんでしたか! お仕事の帰りですか?」
「はい。まあ……」

屈託のない高麗鶴光忠の笑顔を前に素性を偽るのは少し胸が痛んだけれど、ここで正体を知られるわけにもいかない。

「お忙しいんでしょう?」
「え……?」

なぜ彼女がそのことを知っているのか……と驚きかけて、すぐに理解した。高麗鶴光忠はあくまで一般社交の言葉として言ったにすぎない。

「そう……ですね。慢性的な人手不足もあって、この頃はあまり眠れていません。本当はもう少し1つ1つの任務……いえ、取材に時間を割きたいところなんですが」

だのに、つい本音まじりの言葉が漏れ出てしまう。

「これでも最初はそれなりの志を持ってこの世界に飛び込んだんですけどね。近頃はちょっと疲弊気味です」

つい、弱音が口をついてしまう。
いけない。こんなことを彼女に聞かせてどうなるものでもないし、本来なら私が高麗鶴光忠から彼女自身のことを聞き出さなければならないのに。

「ほうね。お客さんは、今のお仕事としっかり向き合っておられるんじゃね」

意外なことを言われて、紅茶を飲む手が止まってしまった。

「そう……ですかね?」
「あ、うち、なにか見当はずれなこと言うてしもうたかね? その、それだけ疲れるんは目の前のお仕事によっぽど向き合っとる証拠じゃと思うたんですけど……戯言じゃと思うて聞き流してください」

高麗鶴光忠はお盆を胸に前に抱き、恥ずかしそうに鼻の頭をかく。なんとも愛らしい人だ。

「はっ! いけんわ。ついお客さんと長話してしもうて! うち、これでよく注意されるんですよ。すみません、お邪魔しました」
「いえ、いいんですよ。それにこれを飲んだらすぐにお暇しますから……」

そう私が言った時、表で季節外れの雷が鳴った。

「あ~……ずいぶんいびせぇ雷さんが鳴っとりますね。お客さん、この雨じゃ帰るに帰れんでしょう。止むまでここで休んでいきんさい」
「でも、もうじき閉店ですよね? ご迷惑では……」
「ええんですよ。お客様第一です。いつもがんばっとるんなら、たまにはゆっくり休んでもバチは当たりゃせんでしょう。雷神様も大目に見てくれますよ」
「それなら……その、お言葉に甘えて」

体が内側からじんわりと暖かくなっていく。それは紅茶のおかげだけではないだろう。

「そうじゃお客さん、せっかくですしうちの秘密のお茶菓子、試してみませんか?」
「秘密の?」
「試作品なんですけどね。試食第一号さんじゃ」

ほんのちょっぴりの悪巧みを楽しんでいるみたいに、高麗鶴光忠は口元を隠して笑った。
ああ……この人は本当に、なんなのだ。
いちいち癒される。ほぐされてゆく――。
どうしよう、まだしばらく帰りたくない。

以上、いつの間にかめいじ館で居眠りをしてしまった御華見衆観察方より報告