
鈴の音を聞いた。
静かな、木々のさざめきや鳥の声すら聞こえない深い森の中で、一点の曇りもない凛とした音色。
それは飾り気のない、しかし魂の深いところを突き刺さすような、鋭く凍える音色だった。
今より少し前。
私は、布都御魂の調査でこの森を訪れていた。
ちょうど本部から禍憑出現の予知もあり、彼女なら間違いなく祓いに来るだろうと踏んで、先回りしたのだ。
案の定、彼女は現れ、数十体を超える禍憑と対峙した。
木々の間、そこかしこに禍憑と思しき影を見て取れる。
ふつうの巫剣であれば、絶体絶命と言っても過言ではないだろう。
私も仕事とはいえ、こうしてこの場に足を運んだことを今更ながらに後悔し始めている。
しかし、深く生い茂る森の中で彼女は悠然としていた。まるで禍憑などいないかのように。
だが、彼女にまつわる逸話を知っていればそれも納得できる。
布都御魂にとって、この程度数にも入らないのだろう。
きっと瞬く間に倒しきってしまうはずだ。
伝説上の巫剣。
戦っている姿を見られれば、多少なりとも調査が進むのは間違いない。
森の中で禍憑の群に囲まれたこの状況、いち個人としては絶体絶命でも、観察方としては絶好の機会なのだ。
見逃すわけにはいかない。木々に身を潜め、戦いの開始を待った。
……はずだった。
それが僅か数秒前のことだ。
今や、彼女を取り囲んでいた多勢の禍憑は、ただ1体の姿も見えない。
それどころか本当に禍憑がいたのかと疑いたいくらい、清浄な空間が広がっていた。
夏の日差しを受けた木々は青々と茂り、時折吹く風に気持ちよさそうに葉をさざめかせている。
なんて心地よい空間だろう。
ここで本当に戦いがあったのだろうか。
そう考えてしまうくらい、あたりはいつもどおりのように見えた。
ただ一点、私の中にある言葉にできない違和感以外は。
そこに佇む彼女は、布都御魂で間違いない。
こちらに背を向け、ともすればぼーっとしているともとられかねない、そんな雰囲気すら漂っている。
それは彼女がここに来てから今までずっと変わらない。
だから、おそらく私の感じているこの違和感は、禍憑がいなくなったという事実にまだ納得できていないから起こったものだろう。
戦いは私が鈴の音を聞いたと思ったその刹那に始まり、そして終わったのだ。
そうとしか考えられない。
その僅かな間で、彼女はここにいたすべての禍憑を祓ってしまったのだ。
本当にそんなことが可能なのか。
考えても答えは出なかった。目の前で起こったことを納得するしかない。
だが、もしそうだとするなら、それは雷よりも速い、まさに神のみわざと呼ぶより他になかった。
ただ一度の鈴の音が鳴る間にすべての禍憑を祓うなど。
泰然と立つ彼女を見ながら、他になにか気づいたことはなかったか、記憶の中を探った。
そして、一つだけ気になることに思い当たった。
鈴の音が鳴ったと思った瞬間、もう一つの音を捉えていたのだ。
それは、なにかを断ち切る音。
どんなものでも易々と断ち切ってしまいそうな、静かな、しかし圧倒的な力の気配だった。
どんなに考えてもこれ以上は出てこない。
この情報を持って、私は一旦この場を後にした。
□
それから数日後。
ついぞ姿を見せなかった布都御魂を街中で見かけた。
以前、森で見た時と印象は変わらないが、紙を手になにかを探しているようだった。
四つ辻の真ん中で辺りを見回すと、手元の紙に目を戻し、今度は グルグルと回している。
どうやらなにかを探しているようだが、道の端ならまだしも彼女がいる場所は馬車も通る。
問題が起きる前に声をかけることにした。
「すみません。そこは馬車が通るから危ないですよ」
怪しまれないよう、細心の注意を払ったひと言だ。
伊達に観察方を長く務めてはいない。
なにより、以前会った時も布都御魂は私の存在に気づいてすらいなかった。
なら、このまま少し話をして、彼女自身のことを聞き出すのもいいのではないか、そう考えた時。
「――(環境情報を確認。対象を認識)」
布都御魂がなにか呟いた。
言葉のようにも聞こえたが、なにを言ったかまでは判別できなかった。
「君、また会ったな」
続いて、そう呟く。
その声は小さく、素っ気ないものだったが、私の魂に響くような有無を言わせぬ力があった。
「仲間に会う必要がある。この場所を知らないか?」
そう言って見せられた紙には、上野にある茶房の名とそこまでの道順が書いてあった。
「ああ、この店なら……」
そう言いかけて、私は気づいてしまった。
布都御魂は、あの森で私が見ていたことに気づいていたのだ。
その上で、私の存在など意に介さなかった。
「――なにか、問題があるのか?」
「あ、いえ。知ってます。そこの道をまっすぐ行くと上野に出るので、そうすればあとは書いてある道順どおりです」
「そうか。助かった」
森で見た時に感じた違和感。
慌てて言葉を継いだが、話している最中もずっと感じていたそれの答えが分かった気がした。
私は、目の前で話をする布都御魂に、まるで意志のない人形と話しているような、そんな印象を持っているのだ。
ただ、粛々と任務を遂行するようなできすぎた兵器のような印象を。
上野までの道を伝えると、布都御魂は礼を言い、真っ直ぐに歩いて行った。
その後ろ姿はただただ強く、この世の何者をも超越した触れ得ざる存在のように見えた。
以上、御華見衆観察方より報告