トップへ戻る

巫剣観察記

二つ銘則宗

二つ銘則宗

箱根山を降りかけたところで通り雨にあった。

「あの雲はよくないね」

麓の茶屋の主人の言葉を思い出す。なるほど、あれはこういうことだったのか。さっきまであんなによく晴れていたのに。

「ひゃー」

情けない声を上げながら雨粒弾ける道を急ぐ。

“二つ銘則宗を調査されたし。”

私がその命を受けたのは湯治先の宿でのことだった。
せっかくの非番なのに! と思わず畳の上を転げ回ったが、その時すでに3日も逗留していた。
対象の巫剣は御華見衆の地方任務からの帰路にあるらしく、たまたま逗留中の私が一番接触しやすい場所にいたのだそうで、3日も休んだのだから帰りしなに一仕事してこいということなのだろう。
当初の目論見ではこの箱根山のあたりで二つ銘則宗に追いつくはずだった。情報によれば彼女はかなり目立つ装束に身を包んでいるらしく、遠目にもすぐそれとわかるだろうと聞かされていた。
だからまず見逃すことはないだろうと踏んでいたのだけれど――行けども行けどもそれらしい背中を認めることはできず、さらにそこへこの雨だった。

「さ、ささ寒い……」

峠の雨は冷たく、温泉で温まっていた体も一瞬で冷えてしまった。
町まではまだまだ遠い。どこかに雨宿りできそうな大木でもないものかと左右を確かめる。

「あ! 助かった!」

大木はなかったが、山道から外れた小道の先に茅葺の屋根を見つけた。
天の助けとばかりにそちらへ向かう。こじんまりとした農家が建っていた。

「ごめんくださーい!」

ずぶ濡れの状態で誰何すると中から人のよさそうなお婆さんが出てきた。

「あの、申し訳ないんですが少しの間……」

私の様子を目に止めるなりお婆さんは「あ」と「え」の中間くらいの声を出しながら何度か頷き、縁側へ通してくれた。
雨宿りならご自由にということらしいが、なんという察しのよさ。迅速な対応。
感心しながら縁側へ行ってみるとなるほど、先客がいた。
私と同じように雨を避けてこの家を訪ねてきたばかりなのだろう、庭に向かってちょこんと座り、その稲穂色とでもいうような美しい濡れ髪を一生懸命絞っている。

「あれれ、あなたも濡れ鼠だね~」

こちらに気づくと人懐っこい笑みを見せてくれた。素朴な絣の着物姿だが、なんとも愛らしい少女だった。

「は……は……」

返事をしようとしてクシャミが出た。
こちらのクシャミにつられて少女も無造作にクシャミをした。
それだけでなんだか打ち解けた空気になった。


庭の銀杏がハッとするほど鮮やかで、根元の辺りにはツルリンドウの実がかわいらしく雨粒に揺れている。

「参っちゃうよね。あっという間に空が暗くなるんだもん」

少女は髪を絞る。

「ですねー」

並んで座り、私も絞る。
今や私も少女とおそろいの着物に袖を通していた。
すっかり濡れてしまった服はお婆さんが家の中で乾かしてくれている。
それだけでなく、暖かい茶も振舞ってくれた。囲炉裏の火が大きくなったら呼ぶからね、とのことだ。

「いいなー。温泉。いいなー」

こちらのここまでの道行を話すと、少女はいたずらっ子のように唇を尖らせて距離を詰めてきた。

「どうりでお肌すべすべ」

少女は白い指で私の腕に触れ、小さくのの字を書いた。

「え? すべすべ?」

褒められて思わず自分でも頬をさすってみる。源泉掛け流しの効果が早くも現れているならこんなに嬉しいことはない。

「あ、急に触ってごめんね。お前は人と簡単に距離を詰めすぎるってよく言われるんだ。嫌だったらごめん」
「そんなこと、全然」
「あたし二つ銘則宗って言うの」
「え?」
「だから、名前」

…………わぁ。
あなたがそうでしたか。
それとなく体を反らせて屋内を確かめる。囲炉裏の近くに美しい黄金色の装束が掛けられているのが見えた。
あれだ。二つ銘則宗を探す目印にしていた装束。
まさか調査対象の巫剣といっしょに雨宿りをすることになるとは。

「うふふ。わかる? 笹丸のよさ、わかる?」

私の視線の先に気づいて二つ銘則宗が目を細めた。なんだか嬉しそうだ。

「笹丸?」
「そう。笹丸。あの子の名前」

着ている物に名前をつけているのだろうか。

「急な雨で笹丸が濡れちゃって困ってたの。その上泥で汚れちゃうし……気分はもう生き地獄……。でも、そしたら富さんが助けてくれて」
「富さん?」
「あのおばーさんだよ。ねー!」

と、二つ銘則宗が奥へ声をかけると、どこからか「ひぇひぇ」という声が聞こえてきた。あのお婆さんが笑ったらしい。

「もう随分仲よくなってるのね」

狙ってやっているわけではなさそうだが、とにかく人と打ち解けるのが得意なようだ。

「もう少し警戒心を持てとも言われるんだけどね」

確かに。相手が善良な老婆なら問題はないだろうけれど、世の中にはいろんな人がいる。
無造作な着物姿で髪から雫を垂らす二つ銘則宗は、控えめに言っても艶かしい。女性的な膨らみもしっかり……というか、悔しいくらいにある。
私がもし男で、彼女とこんな偶然の出会い方をしてしまい、こんな風に気さくに距離を詰められたらそれはもう恋せずにはいられないだろう。
などと考えていたら、ぐむぅとお腹が鳴った。恥ずかしい。

「立派に鳴ったねー。あ、いいのあるよ。まだ残ってたはず」

腹の虫を聞きつけて二つ銘則宗がそばに置いていた包みを開く。
中にはおむすびが2つ。

「え? くれるの? でも…」
「いいのいいの! あたしは食べたばっかりだから」
「そ、それならありがたくいただきます!」

実際かなり空腹だったので我慢ができず、もがーと頬張った。そんな様子を見て彼女は嬉しそうに笑っていたが、突然表情を硬くした。片目を閉じ、なにかに耳をすませている。

「ほぅひはんへふ?」
「急がずゆっくり食べなよ。あたしはちょっとお客さんの相手」

庭の右手には山肌が迫っており、生茂る木々の葉が雨粒を弾いている。二つ銘則宗は腰を上げて縁側を降りるとそちらの方を向いた。
お客さん? そんな険しい山の方から?
と、思う間に茂みの中から巨大な猛獣が飛び出してきた。大きさは熊ほどもありそうだ。でもそれは熊じゃない。私にはそれがわかる。
禍憑だ。よりにもよってこんな場所に。

「むぐっ……!」

思わず叫び出しそうになったが、米が盛大に喉に詰まってなにも言えなかった。息もできない。必死に胸元を叩き、お茶で流し込む。
本来ならまず富さんの安全を確保しなければならないのに、私ときたら!

「し、死ぬかと思っ…………た」

密かな生命の危機を脱して顔を上げた私は――またなにも言えなくなった。
庭の中央で二つ銘則宗が刀を天に掲げている。
その切っ先に禍憑。刃に貫かれてすでに動きを止めていた。

「驚かしてごめんね。でももう終わったから」

こちらを気遣わしげに見る二つ銘則宗。しとしとと降る雨で彼女の髪はまた濡れていた。
部屋が暖まったのだろう、家の中から富さんが呼んでいる。
たった今あったことを、迫っていた危機を伝えるべきか――。
私の考えを読み取ったのか、二つ銘則宗は口元に人差し指を当てて「しー」と言った。
わずかに空が明るくなっていた。


軒先に立つと、どこからか野鳥の鳴き声が聞こえた。
なんだろうと思っていると、あれはルリビタキだと富さんが教えてくれた。
玄関から外へ出てみると雨は綺麗に上がっていた。
二つ銘則宗と並んで頭を下げる。

「大変助かりました」

富さんは何事かをモゴモゴと言い、笑顔で頷いた。

「富さん、あげる」

富さんの笑顔に負けない笑顔で二つ銘則宗が自分の包みを彼女に手渡す。
多少困ったような反応を見せる富さんに二つ銘則宗は言った。

「いいのいいの! もう1つ自分のを残してるから! それじゃね! ありがとう! 元気で!」

富さんの反応を待たず二つ銘則宗はその場を後にした。私も遅れて後を追う。

山道に戻ったところで声をかける。

「二つ銘則宗さん、おむすび、あげちゃってよかったの?」
「いいのいいの」

もう1つ残していると彼女は言ったが、私ははっきり見ている。包みの中におむすびは2つしかなかった。そのうち1つは今、私の胃袋の中だ。
「戻ったらこの辺りも警戒を強めるように言っとかなきゃ」と二つ銘則宗は呟く。
結局、彼女は富さんに禍憑のことを話さなかった。恩に着せるような素振りもなく別れた。不安を煽るようなことをしたくなかったのだろう。
おむすびのこともそうだが、まったくこの子は気前がいいと言うかよすぎると言うか。
山風が二つ銘則宗の着る笹丸をふわりと揺らす。それはもうすっかり乾いていてどこまでも軽やかだ。

「さ、東京までのんびり行きましょ。旅は道連れ~」

前方を指差す二つ銘則宗のお腹がぐむぅと鳴った。
なんだか知らないけれど、私は嬉しい気持ちになった。

以上、御華見衆観察方より報告