
観察方として働いている僕は、久々に休暇をもらって実家の日野市に帰ってきている。
同じ東京とはいえ、仕事が忙しく中々帰って来れないでいたから、この界隈を歩くのは随分と久しぶりだ。
ただ、せっかく羽を伸ばせる休暇だというのに、出掛けに書類を持たされ、その整理を任されてしまって気が重い。
そう考えていた僕は――曲がり角から突然飛び出してきた影に激突してしまった。
僕は受け身も取れず、その場に尻もちをついてしまう。
「おい、どこを見て歩いている!」
怒声に顔を上げると、知らない女性が鋭い目つきで睨んでいた。
腰まで届く程の長い黒髪、長い外套に革靴。珍しいハイカラな服装をしている。
「なにを黙っている! 人にぶつかってきて謝罪の一つもないとは、無礼ではないか!」
僕は慌てて立ち上がり、目の前の女性に謝罪の言葉と共に頭を下げる。
「ふんっ! 謝るつもりがあるなら、最初から謝れ。ただでさえ虫の居所が悪いというのに! これ以上、私を怒らせるな」
――待てよ。僕は普通に歩いていただけで、角から飛び出して来たのは彼女の方だ。
謝るのは僕じゃなくて彼女の方じゃないか、なのになんで僕が怒られているんだ。
「なんだ、謝れば満足なのか? 私が悪かった……これで気が済んだか?」
口が悪いにも程がある、今ので謝ったつもりなのか。
これは文句の一つでも言わないと気が済まない。一体、何様のつもりなのか。
「何様だと? 私は和泉守兼定、それ以上でもそれ以下でもない」
そうか、彼女の名前は和泉守兼定と言うのか。
……和泉守兼定? どこかで聞いたような気がする。
「そうだ、この近くに飴を売っている店を知らないか……ませんか? できる限り近い店だといい……です」
様子がおかしい。急に歯切れの悪い物言いになった彼女をいぶかしみながらも、この近くに和菓子屋があることを伝える。
「あ、あの……宜しければ、案内を……お願いしたいの、ですが……いいですか……?」
先程までとは打って変わって、今の彼女は弱々しさすら感じるほどだ。
人が変わり過ぎているような……。
「ダメ、ですか……?」
――可憐だ。
薄っすらと潤んだ瞳、蒸気した頬、恥ずかしそうに縮こまる仕草。
ぶつかった時に怒鳴ってきた女の子が、どこをどうすればこんな風になるのか。
僕は会って間もない和泉守兼定に惹かれてしまっていた。
もちろん、案内くらいであれば良いに決まっている。
僕はうつむきがちに慎ましく後ろを付いてくる彼女と一緒に和菓子屋を目指すこととなった。
彼女の歩幅に合わせていたので、時間は掛かってしまったが、なんとか目的の和菓子屋まで辿り着いた。
「あ、ありがとうござい……ます。そ、それで……あの……お礼をしたいので……待っていてもらえ、ますか……?」
僕が頷くのを見て、彼女は店の中へと入って行った。
……ここでこっそりと隠れて彼女の反応を見るのも、それはそれで面白そうだが。
「ぜ、絶対に……待っていて、くださいね……」
今にも泣きそうな潤んだ瞳で僕のことを心配そうに見つめてくる。
本当に泣いてしまいそうなので、ここは素直に待っていた方が良さそうだ。
そう時間をおかず、彼女は袋を両手に抱えたまま和菓子屋から出て来た。
だが、そこで違和感を覚えた。
向こうから歩いてくる和泉守兼定の表情は、恥ずかしがっているわけでもなく、かと言って怒っているわけでもない。
「待たせたな」
――彼女は無表情だった。
どういう事だと聞こうとすると、僕の横を通り過ぎながら、僕にしか聞こえない程度の声で囁く。
「今日の事を誰かに喋ったら……斬る!」
一瞬、周囲が凍りつくような感覚に襲われる。
恐ろしい程強い殺気とともに放たれた、無感情で低く冷たい声。
今、僕の前にいる彼女は、先程まで僕の後ろを歩いていた女の子とは真逆だった。
どれくらい時間が経ったのか、完全に頭が冷えた僕はある事を思い出した。
持たされた書類の中に和泉守兼定の名前があったことを。
鞄の中から和泉守兼定の記述がある書類を取り出して確認する。
風体ともに合致しているが、性格に関して問題があるような記述はなかった。
だとしたら、彼女が最後に買っていた飴が原因なのだろうか。
それとも、この辺りの飴には特殊な成分でも入っている?
まだまだわからないことばかりだが、とりあえずここに記しておくことにしよう。