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巫剣観察記

熊野三所権現長光

熊野三所権現長光

四月の初めのこと、関東全域に強く暖かい風が吹き、中空を彩っていた桜花の多くはその花を散らせたが、翌日は打って変わって風も止み、暑くも寒くもない穏やかな日和となった。
こんな日は贔屓のお店の羊羹でも楽しんでから真昼の春眠といきたいところなのだが、残念、私は今息を切らして林道を走っていた。

「はぁ……はぁ……急がなきゃ! はひー!」

巫剣・熊野三所権現長光が緊急で禍憑発生の地へ派遣されたという話をつい先ほど聞きつけ、急いで現場へ向かうことにしたのだ。
熊野三所権現長光に関しては前々から情報収集を言いつけられていたのだが、なかなか良い機会に恵まれず今日まで時間だけが経っていた。
そろそろ結果を出さなければと焦り始めていたところにこの情報だ。今現場へ向かえば彼女の戦う様を見ることができる。この機会は逃すわけにはいかない。



もうどれほど走っただろうか。
林の奥に忘れ去られたように建つ神社が見えた。社は傾き、鳥居は片足が折れ、今にも倒壊しそうだ。
こんなところにこんな場所が――。
その寂しい境内の中央に彼女は立っていた。
居た。
熊野三所権現長光だ。

「よかった……やっと見つけ……」

発見の喜びも束の間、私はすぐに肩を落とした。
すでにその場での戦闘は決着がついていたのだ。
見れば熊野三所権現長光を中心に円状に無数の禍憑が倒れており、今まさに浄化、霧散するところだった。
境内の周囲には古い神社を囲むように山桜が連なっていて、やはり昨日の強風によってほとんどの花が散った後だった。
にも関わらず、その場には大量の花弁が降り注いでいる。
それは枝枝から舞い散ったのではない。一度は地面に降り積もっていた花弁が、今しがたなにかの大きな力によって再び空に舞い上げられたのだ。
それが熊野三所権現長光のなんらかの技と力によるものであることは間違いなさそうだった。

「いったいどんな戦いをしたんだろう…………くぅ! 見たかったぁ……!」

脱力し、その場にへたり込む。

「あら、見知らぬ方。あなたは?」

熊野三所権現長光がこちらに気づき、刀を鞘に納めながら歩み寄ってくる。

「いや……その……はは。桜が散り切っちゃう前に花見でもと思ってここまで来てみたんですけど、ひと足遅かったみたいで……」

正直心身ともに消耗していて取り繕う余力もなかった。

「あら、それはそれは。心中、お察しします。あ、申し遅れました。わたし熊野三所権現長光と言います」

熊野三所権現長光はなんだかおっとりした口調でそう言うと、私の髪についていた花弁を取ってくれた。

「……ありがとうございます」
「桜、残念でしたねぇ。でも、まぁほら、悲しむようなことではないですから」
「はい?」

彼女の言わんとしていることがちっとも理解できない。

「桜は散ってしまいましたけど、それはなにかの終わりを示すものじゃありません。この人たちは次の季節への備えをしているだけですよ」
「この人たち……? ああ、桜のこと……」
「ですからこれはむしろ喜ばしいことです。それにほら、おかげさまで今ならこんなにふかふかで綺麗な寝床が!」

熊野三所権現長光がニッコリ笑顔で指さしたのは足元。
確かに、舞っていた無数の花弁がまた降り積もって大地を覆い隠していた。

「確かに……天然自然の絨毯と言えなくもないですね」
「いいえ! これは寝床です!」
「は、はあ……どう違うんでしょう?」
「寝床では寝るものです。今日はいい日和ですし、ね?」

と言ったそばから熊野三所権現長光はその場に寝転がってしまった。
今まで終始小脇に抱えていた西洋の枕を抱きしめ、桃色の寝床の上で横臥している。

「ちょ、ちょっと!?」
「ほら、よければあなたも。見知らぬ方」
「わ、私も……ですか? まさかここで昼寝を!?」
「ひと仕事終えましたからぁ」

ついさっきまでこの場で禍憑と死闘を繰り広げていたとは思えないお誘いだ。
私は大いに戸惑ったけれど、彼女の不思議な圧力と言うか、懐柔力に押されて同じように桜の上に寝そべってしまった。
私はいったいなにをやっているんだろう。
でも確かに柔らかい。それに微かに甘い匂いもする。
木々の隙間から陽光が差し込み、体が心地よく温められる感触さえあった。

「ね?」

心地いでしょう? と熊野三所権現長光が言ったような気がした。

「こ、こんなことしてて……いいんでしょうか。その、神社の境内で……」

ここは人など通りかかるはずもない静かな山林の奥地だ。気にするようなことはなにもないのだけれど、やっぱりなんだか落ち着かない。
神様にみられているような気がする。
横を向くと熊野三所権現長光がすぐ隣にいる。手を伸ばせば届く距離だ。
彼女はしばし目を閉じていたが、トロンと眠そうな目を開けてこう言った。

「きっと、神様だってお昼寝してますよぉ」
「そう――ですか」

なんとも不思議なものだけれど、そのように言われるとそれは確かにそうかもしれないなぁと思った。
思いながら、走り疲れていた私はそのまま眠りに落ちた。
熊野三所権現長光――まだまだ謎多き剣と眠りの達人である。

以上、御華見衆観察方より報告