
――ここはどこだ。
眼前に広がるのは見た事のない風景。
ただ空と田畑が広がる長大な街道に私は立ち尽くしていた。
私は任務で書簡を届けるため、東京を出て熊本の地までやってきたのだが……。
城下町まで届けるだけの簡単な仕事だと高をくくり、歩いて行こうと思い立ったのが運の尽き。
目的地の手前の町で適当に馬車を降りて、歩き始めて数刻が立とうとしていたのだが――迷ってしまった。
全く城下町は見えてこない……というよりも、どこに向かっているかも見当が付かない。
しかし、そんな私に思いがけない助け舟がやってきた。
「こんなところでなにやってんだ、兄ちゃん。ははーん、さては……狸に化かされて道にでも迷ったか?」
背後から聞こえた可愛らしい声に振り返ると、
そこには地元の町娘だろうか、勝ち気そうな目をした袴姿の娘が一人で立っていた。
長物が入ってるのだろうか。大きな風呂敷がいやに目を引く。
「道に迷ってんなら、オレが案内してやろうか? オレも街に帰る途中なんだ、一緒に行こうぜ」
どうやら、言葉遣いは少し乱暴だが親切な娘らしい。
その提案を受け入れた私は彼女に連れられ、彼女と二人で城下町へ向かうこととなった。
「あはは……わりぃな、兄ちゃん。手、貸してもらって。この格好、どうにも歩きづらくてな」
勝ち気そうな娘に案内を任せてからしばらく。
いつしか街道は見えなくなっていた。歩く道は獣道に変わり、もはや山登りと言っても過言ではないだろう。
娘の格好はこの道を歩くにはさすがに厳しい。
そのおかげで私は彼女の手を引いて歩く羽目になっている。
こんな事になるなら、他の道を行けば良かったのではないだろうか。
「他の道? もちろん、あるにはあるぜ。山を登らずに回っていく道が」
どうしてそれを先に言わなかった。
その道を通っていれば、こんな大変な思いをしなくて済んだはずだ。
「おいおい、ちょっと足場は悪いかも知れねぇけど、これが近道なんだよ。早く着いた方がいいだろ?」
それは確かにそうなのだが……こう手間がかかっては文句の一つや二つ、
言いたくなるのは当然だろう。遠回りでも普通の道で行けば、こんな苦労はしなくて良かったはずだ。
「……なあ、兄ちゃん。なんか、変な音が聞こえねぇか? こう、ドドドッて感じの足音みたいな」
耳を澄ませてみると確かに妙な音が聞こえてくる。
どうやらその音はだんだん大きくなり、私たちの方へ近づいているようだ。
ガサガサッと茂みを掻き分け、黒い何か飛び出しくる。
それは、小熊ほどの大きさの猪だった。
私は咄嗟に彼女の前に立ち、庇うように猪と向き合う。
道に迷ったところから始まって、変な娘に山登りさせられた上、挙句の果てが猪。
踏んだり蹴ったりだが、男として女の子くらいは守らないと――。
「あー、兄ちゃん。ここはオレに任せな!」
一体何を言っているのだと考えた一瞬に彼女は私を押しのけて前に出ていた。
いつの間にか髪を束ね、手にはこのご時世には珍しい刀が握られていた。
「たまに歩いたっていうのに邪魔しやがって! ぽんぽこにしてやんよ!!」
私が驚くのも束の間、彼女は胸元を緩め、腰を落とす。
刀を構えるためにめくられた裾がいやに艶めかしい。
私は思いがけず、彼女に見入ってしまい動けずにいた。
そして――猪が彼女に激突しようかという瞬間、猪は高々と宙に舞った。
「まっ、こんくらい楽勝だな」
見惚れるほどに綺麗な一閃。
なるほど、ようやくわかった。
彼女はただの町娘などではない。あの刀を握る姿は――
「あっ! そこにいるとあぶねぇぞ、兄ちゃん」
その言葉に反応して前を見ると、上から黒い何かが降って……な!
――ぐぅ!?
重い……私は何かに潰され――。
「あー、やっちまった……仕方ねぇ兄ちゃんだなぁ」
遠のく意識の中、見えたのは私を押し潰す猪の巨体と、私を見下ろす彼女の姿だった。
「――ちゃん……おい……しっかり……おい、兄ちゃん! 聞こえてるのか、起きろって。こんなところで寝てたら風邪引くぞ!」
声に気付いて目を開ける。
すると、見知らぬ男性が私の事を心配そうに見下ろしていた。
意識がはっきりとしないまま辺りを見回すと、ここは山の中でなくどこかの街の外れらしい。
状況が理解できずに男性にここがどこなのか尋ねる。
すると男性は城下町だと告げた。
いつの間に私は街まで来たのだろう。確かに山の中にいたはずなのだが。
「山の中にいた? なに寝ぼけてんだ、兄ちゃん。ははっ、まさか狐や狸にでも化かされたのかい?」
……狐?
――いや、あれは狐でもなければ、狸でもない。
あの姿、あの刀……私の見たものが幻でないのなら、彼女は恐らく巫剣だ。
そう考えて調べたところ、正体はすぐに判明した。
熊本で用心棒をしているという巫剣――同田貫正国に間違いない。
私はまんまと狸に化かされたというわけだ。
書簡を無事に届けて任務は終わったが、私はしばらくこの地に留まることを決めた。
なにより、あの巫剣に文句の一つでも言ってやらないと気が済まないからだ。
彼女に関する続報があり次第、改めての報告とする。