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巫剣観察記

青木兼元(?)

青木兼元(?)

その部屋には彼女の許しがない限り何人も立ち入ることが許されていない。それは徹底されていた。
燭台の蝋燭はそよとも揺らがない。
その扉の前に男が1人立ち、緊張の面持ちで中へ声をかけた。

「姫」
姫の忠実なるしもべ黒多平左くろだへいざ の声だ。彼女を煩わせぬようにか、黒多は返事をまたず続けて言った。

「砦の目前に怪物が出たと皆が騒いでおります」

しばしの間の後、中から優美な声が響いた。

「禍憑ね」

そんなことは承知していると言いたげだ。

「で? それをまんまと見落とした物見を斬って捨てる相談でもしに来たのかしら?」
「姫……それは……」
「冗談ですわ」

椅子から立ち上がる音が聞こえる。

「アレはおまえたちでは対処できません。わたくしが手を下す他ないでしょう。まったく煩わしいことね」

そこはまさに洞窟その物だった。壁も床も天井も剥き出しの岩で囲まれている。
先には広間があり、そこからまた四方に横穴が伸びている。複雑に入り組んだ迷宮のようだ。
扉の向こうから現れ出た女は、しかし黒いベールを頭からかぶり、 その顔ははっきりとは見えない。常からそのようにして高貴さを保っているとでも言うように。

「数は」
「10体」
「なかなかの大所帯ね。家族連れかしら」

クスクスと笑って見せると黒多はかしこまった態度で「あるいは」と言った。

「そう」

それも冗談だったのだろう。姫は幾分不満げな声を漏らした。

入り口付近に近づくにつれ人の姿が増えてくる。いずれも若く屈強な男ばかりで、そろって刀を腰にぶら下げている。尋常の集団ではない。
だがそんな屈強な彼らも背後からやってきた彼女に気づくと例外なく目を見開き、顔をいくらか青くして身を引いた。
「姫」「姫様だ」口々に囁き合っている。
群衆が自然と左右に割れて道ができ、姫は悠々と洞窟から外へ出た。乾いた夜風が吹いている。
グルルルルゥ……
1体の巨大な禍憑が闇の奥からぬるりと現れた。その口には牡鹿が咥えられていた。牙が深く喉元に食い込み、鹿はすでに息絶えている。

「姫……お気をつけください」
「皆下がっていなさい。怪物の臓物を頭から浴びたくなければ」

姫を目に止めると禍憑は鹿を乱暴に口から放し、ひと吠えした。
木々の向こうにも無数の禍憑の気配を感じる。

「おまえたち、人の気配に誘われてこんなところまでやってきてしまったのね」

姫は音も立てず、刀を抜いた。

「でもここは三阿弥党の砦。そしてここにはわたくしがいる。だからおまえたち、1匹残らず塵になるの」

姫の言葉を理解してか、禍憑が臨戦態勢に入る。
地面を深くえぐって地を蹴り、圧倒的な質量と速度で彼女に襲いかかった。

「遅くってよ」

だが姫はまるで怖じけず、動じず、一瞬のうちに禍憑を十字に切り裂いてしまった。
背後で見守っていた男たちからどよめきが起こる。そこには歓声と畏怖が入り混じっていた。
遅れて他の禍憑も飛び出してくる。
2体、3体、4体――。姫は美しく舞うようにそれらを斬り、突き、削り、順に滅ぼしていった。
終わってみると彼女は最初に立っていた場所からほとんど一歩も動いてはいなかった。
敗れた禍憑は塵となって霧散していく。姫はその異常なる塵の中でそれは愉しそうに笑っていた。
だがふとなにかに気づいて口角を下げる。彼女の足元に一頭の小鹿がいた。
それまで草むらに隠れていたのだろう。小鹿はヨタヨタと姫の前を通り過ぎ、地面に横たわったまま動かなくなった牡鹿に寄り添い、鼻先を近づけた。

「お見事です」

黒多が駆け寄ってきて、羽織を姫の肩にそっとかけた。

「姫、夜風は冷えまする」

彼も遅れて足元の小鹿に気づく。

「生まれてからまだそれほど間もない小鹿ですな。父親と共にいたところ運悪くあの怪物らと出会ってしまったのでしょう」
「親子、と言うわけね」
「姫……なにか?」

どんなに呼びかけようとも、もうそこに親の魂はないというのに、小鹿はいつまでもむくろの側を離れようとしない。

「なんでもないわ。おまえたちよかったわね。今夜は鹿肉よ」
「皆喜びます」
「それから……」
「は?」
「ネズミが入り込んでいるわ。対処しておきなさい」
「……御意」

姫は刀をしまうと、なんの未練もないと言うように鹿の親子に背を向けて再び砦へと戻っていった。

「……これは」

手記はあちこち破れ、水に濡れて文字が霞んでいた。私は改めてそれに目を通し終えてから1人首を傾げた。
この手記は郊外の河原に流れ着いていたところを発見され、先ほど私のもとへ届けられた。報告書としてまとめる以前の乱雑な文章で、破損も酷く、かなりの部分を推測で補いながら目を通したが、そこに書かれていた内容は興味深いものだった。これを記した観察方の捜索を急がなければならないけれど、到底無事とは思えない。
知らずと私の体はこわばっていた。この手記からなにか無視できない脅威を感じる。
私たちの知らない新たな存在、新たな勢力が不穏な動きを見せようとしている。そんなふうに感じられてならない。

以上、御華見衆観察方より報告