
近頃、冬眠明けの熊が食料を求めて集落を襲う事件が頻繁に起きている。
そこに一風変わった、熊の毛皮を被った女性が熊退治に大活躍をしているという噂が立った。
山の神は古くから女性を嫌うとのことで、その女性がマタギということは有り得ない。
もしかすると、その正体は巫剣なのではないだろうか……。
むしろ、熊相手に戦える女性などは巫剣以外は考えられない。
そう思った私は早速、噂の立った千葉の寒村へと向かった。
だが、大熊出没につき、山々は立入禁止であり麓よりも登ることは許されなかった。
流石に命は惜しい。
熊の膂力は大の大人でも比べ物にはならない。
私自身が鉄砲を持つかマタギを雇うか、あるいは巫剣の護衛でもいなければ、
常人など野生の熊の前では赤子同然である。
と、シャリンシャリンと熊よけの鈴が遠くで聞こえた気がした。
すぐさま、高台の鐘がカンカンと鳴らされ、大熊の出没が告げられた。
みなが一斉に家屋の中に閉じこもる。
相手は一つの村を襲撃し、マタギたちに重傷を負わせた猛者である。
しかも、今はマタギたちは大熊の囲い込みのために別の山に出払っていた。
村人たちは息を呑み、大熊の襲撃に為す術がないという絶望に身を震わせた。
だが、ただ一人、猟銃を携え黒い毛皮に身をまとった者が、村の中央に悠然と立ち尽くしていた。
毛皮を頭から被っているため、その表情は見えない。
門戸の間から覗いていた私は、その立ち姿に見惚れていた。
「私に任せるがいい! 一撃だ……」
発せられた凛とした女性の声には微塵の恐れもなく、むしろ人々の恐怖さえ打ち払う魅力さえあった。
突然、彼方からぐおおおっ!と猛獣の叫びが響いた。
すると、ゆっくりと猟銃は水平に構えられ、甲高い破裂音が響かせた。
瞬きを数回した時には、ずずん、と巨大な獣が地に伏せる音が響く。
黒い毛皮をまとった者は、それでも構えを解かない。
まだ、クマは生きているというのだろうか。
見守る私は、息苦しく熱く渇いた呼吸を三度数えることになった。
毛皮に隠れた口元が、微笑むように見えた。
その口元の柔らかい雰囲気から、その者が女であるとわかった。
女は大きく息を吐くと、目配せするように猟銃を小さく横に何度も払う仕草をした。
それから、ややあって、その女は猟銃を下げた。
そして、毛皮で隠した顔を露わにし、屋内の人々に猟銃を掲げて叫んだ。
「親熊は私が仕留めた! 安心するがいい!!」
歓声を上げて、人々がその女の元に駆け寄る。
ああ、間違いない、彼女は巫剣だ。
女のマタギがいるわけもなく、いたとしてもこの威風堂々とした立ち振舞いは常人のそれではない。
銃を扱う巫剣は多くはない。その中で長物の銃を扱うとなれば、それは長篠一文字に違いない。
その名の通り、長篠の戦いにて武勲を上げた歴戦の勇に数えられる。
村人に微笑みで安心を与えながらも、その瞳は殺気を放ちつつ山の方をずっと向いている。
残心の構えであるのかと視線の先を追うと、その先には子熊の姿が二匹。
「達者でな。人の世に関わるな。私も無駄な殺生はしたくない」
長篠一文字は目元を緩ませて、そう呟いたようだった。
子熊が山奥に去るのを確認して、彼女は村を去ろうと踵を返した。
私は去り際の彼女を呼び止め、なぜ、マタギをしているのか、と問いかけた。
「人の世に陰ながら役立つのが、道具としての定め。私は世の中がどう変わろうとも、私の生き方を貫くだけさ」
そう言って、彼女は戯れに指で銃を作ってみせた。
「ばきゅーん! 私に関わると火傷するぞ? 貴公も達者でな」
それ以来、マタギの巫剣の消息は不明になってしまった。
彼女は一体どこに行ってしまったのだろうか。