
――これは正式には記録されることのなかった、落丁観察記である。
「雪やこんこん霰やこんこん」
いつだったか、通りかかった河川敷で見知らぬ男がこの歌を1人で口ずさんでいた。
なんの歌だと戯れに尋ねたら、自作だと言う。故郷を思い作ったと。別に音楽家を目指しているわけでもないと言うが、いつかこの歌が子供たちに歌い継がれたりしたら嬉しいと男は笑った。
忘れたころに教科書にでも乗るかもねと適当なことを言って九字兼定(?)はその場を去った。それっきりだ。
その時の歌がなんとなく耳に残っていたらしい。新雪を前につい口ずさんでしまった。
「雪やこんこん……こんこんってなんだろう? 咳? 雪も咳をするのかな」
いや、「こんこん」ではなく「こんこ」だったかもしれない。
「……で、こんこってなんだ?」
結局よくわからない。まあ、別にどうでもいいけれど。
「変わった歌が聞こえると思って出てきてみれば、あなたでしたの」
声に振り向くと――女が立っていた。腰に日本刀を携えている。
「アオか。そっちこそ珍しく早起き」
一瞬、冬の朝の寒気とは別のナニかが背中を這った。目の前の女から放たれ――否、漏れ出ている。殺気とは違う。
狂気――であるのかも知れない。
けれど、これくらいのことで身構える九字兼定(?)ではない。むしろ奇妙な親近感さえ覚えた。
この気配は――ぼくと似てる。
「ひと晩でずいぶん積もりましたのね」
「これ、雪って言うんでしょ」
「あなた、雪を見るのは初めてなの?」
「うん」
「そう。まだまだね」
何がまだまだなのだろう。
「アオは見慣れてるんだね」
「当然よ。二度目ですわ」
大した差はなかった。
九字兼定(?)は両手で雪を丸めながら言った。
「雪って柔らかいかと思えば硬くなるし、硬いかと思えばすぐ消えて無くなるし、ヘンだ。それに消えれば、人はそこに雪があったことも忘れる」
「……今日はよく喋るのね」
巫剣・青木兼元に似たアオと呼ばれる女が言う。
「このアジトへ流れてたどり着いてから、ろくに誰とも交流を持とうとせず、自らを語らず、自由奔放三昧でしたのに」
アオは気位の高そうな瞳を、今自分が出てきたアジトの方へ向けた。洞窟が山肌にポッカリと口を開けている。
彼女の言うアジトはその中にある。中にはある一派の人間たちがいて、彼らは政府から隠れて生活している。ある大望を果たすために。
「あなたもついに寂しくなって、わたくしにかしずきたくなったのかしら? ほら、素直におなりなさい」
現在は青木兼元(?)を頂点として何やら活動の準備をしていると言うが、九字兼定(?)には興味がない。行くあてのない中で青木兼元(?)に拾われ、成り行きでここに留まっているだけだ。
馴れ合いも憎み合いもない。そんな関係性と距離感だ。
青木兼元(?)もそのことは承知しているようで、日ごろこちらに構ってくるようなことはしない。
――好きになさったら? わたくしも好きにするから。
出会った時、青木兼元(?)が言った言葉だ。だから好きにしている。
「怒ったのかしら?」
「べつに」
丸めた雪を青木兼元(?)に向けて投げた。ほんの戯れに。
それは着弾する直前で粉となり消えた。いつの間にか彼女の腰から刀が引き抜かれている。常人には見えない速度で幾重にも斬り払ったのだ。
花の弾けるように散った雪の結晶に朝日が反射して輝く。その向こうで青木兼元(?)の鋭い眼光が光った。
「不敬な」
彼女の刀の切っ先がそのままこちらに向く。
「少し解らせてあげる必要があるようね」
冷たく煮えたぎるような覇気が放たれ、周囲の空気が震えた。
「へえ。やるの? 僕はどっちでもいいけど」
九字兼定(?)も静かに柄へ手をかけた。
「始まっちゃったらもう手加減はできないよ?」
少しも臆することなく震える空気を押し返す。舞い上がった雪の粒が九字兼定(?)の唇に触れた。それを舌先で舐め取り、相手との間合いを図る。
遠くの松の木の枝から音もなく雪が滑り落ちる。
2人はそのままピクリとも動かず、じりじりと日差しだけが角度を変えていった。
「手が冷たい」
「寒いですわ」
やがてどちらからともなく、不平を漏らした。
「どーしてわざわざこんな寒い時にやらなきゃならないんだ」
九字兼定(?)は一気にバカバカしくなった。どうでもよくなった。
本気で斬り合った後の青木兼元(?)の生き死など興味はない。成り行きで息の根を止めてしまっても、それはそれ。ああ、殺したなと思うだけだ。そこにためらいなどない。
しかし「どちらが上か決着をつける」ことにもさして興味はなかった。
寒いのでやる気をなくした。ただそれだけ。
青木兼元(?)もまた納刀しながら言う。
「知らないわ。あなたが挑発してきたのでしょう。おかげで体が冷えたわ。ほら、急ぎ湯を沸かしなさい」
「なんで僕が。すごい偉そう」
「偉いのよ」
青木兼元(?)はいつもアジトで偉そうな椅子に偉そうに座って、時々その剣技で刃向かう者を黙らせている。他の誰からも恐れ、畏れられている。
けれど九字兼定(?)は別に怖くなんかない。いざとなったら負かしてやるだけだ。そう思っているからかもしれない。ともかく結果的にここで彼女を恐れていないのは青木兼元(?)だけとなっている。
2人で思い出したように手のひらに息を吐きかける。
「別に話すのが嫌いってわけじゃないよ」
脈絡のない九字兼定(?)の言葉に青木兼元(?)はほんの少し首を傾げた。
「さっきの話」
話したくなれば――話したいことがあれば、ぼくだって話す。
おかしければ笑う。
こだわりなどないのだ。
「ねえ、雪やこんこって、どう言う意味だと思う?」
「話が飛びますわね……。知りませんわよ。キツネでもいるんじゃなくて?」
その発想はなかった。
「もう中へ戻りますわ。立案した作戦の詳細をまとめないといけないの」
「作戦?」
「ええ。……そうだわ、あなた今度の作戦に参加なさい」
「ぼく?」
「町へ降りてその力を人間に見せつけておやりなさい。こんなところで雪遊びに興じているよりは、きっと楽しくってよ」
「町へ……」
いつもなら断るところだけれど。
別にどうでもいいけれど――。
「うん。構わないよ」
きっと町へ行ったって何も変わらない。ぼくはただこれまで通り見えない流れに流されて、熱くも楽しくもなく生きていくんだろう。
それでももし、思わず気になってしまうナニかに出会えたなら、その時はまた久しぶりに笑えるだろうか。