
久能山の真恒が動かない。
日の出を見てからもうかれこれ1時間。
海を間近に臨む長椅子に腰をかけて動く様子がない。
「あのー……寒くないんですか……?」
あまりに動かないものだから心配になってつい声をかけてしまった。
1月1日の海風は訪れた人の体を軒並み冷やしていく。
「はい……? はあ……」
顔を上げた彼女の表情は……よくわからなかった。
大きな丸い瓶底眼鏡がその大部分を隠してしまっているから。
「……どちら様、ですか?」
警戒されてしまった。
いきなりこちらの素性――観察方であること――がバレてしまうようなことはないとは思うのだけれど、中には勘の鋭い巫剣もいるから油断はできない。
「あっ、ごめんなさい。私、初詣の後に御来光を拝みにきていたんですけど、貴方がさっきからずっとそこでじっとしているのを見て気になっていたんです」
と、私はあらかじめ用意しておいた文句を口にする。けれどそれは丸々方便というわけでもない。半分以上は真実だ。
今日は元旦。私は眼鏡の彼女、久能山の真恒を調査するためにこうして東京湾まで出張ってきたのだった。
果たして情報通り久能山の真恒を見つけることができるものだろうかと危惧していたのだけれど、意外なほどあっさりと見つかった。
けれど発見した調査対象はまるで動く気配がなく、困り果てていたのだ。
このままではなんの情報も得られない。どうしたものか。
そうして焦り半分、心配半分で声をかけたというわけだ。
「なにかひどく思い悩んでいることでもあるんじゃないかって思って。余計なお世話かとは思ったんですけど」
「そうでしたか……。それはご心配をおかけしました」
久能山の真恒は淡々と頭を下げ、また東の空を眺める。陽光は西にそびえる霊峰富士を照らすばかりでなく、彼女の眼鏡にも反射していた。
初日の出を拝むために暗いうちから海岸に集まっていた人々も、今となってはそのほとんどが散っており、辺りは静けさを取り戻しつつあった。
「そう言われてみれば寒いですね……」
彼女は随分時間が経ってから最初の質問の答えをくれた。
「それでも長居しているなんて、なにか初日の出に思い入れでも?」
「ええ……。以前暮らしていた場所でもこうして眺めていました」
「最近東京へ?」
「はい……そのようなところです」
これについては既に調べがついている。久能山の真恒が久能山東照宮からやってきたことも、彼女が人付き合いをそれほど得意としていないらしいことも。
「……もしかして私、邪魔、しちゃってますか?」
遠慮がちにそう尋ねてみる。けれど意外にも久能山の真恒はハッとしたように顔を上げた
「いえ……あの! ごめんなさい……。私、ボーッとしていて……。失礼な態度を……。邪魔なんかでは……ないです」
「そ、そうですか? それなら」
と、六尺ほどの距離を置いて隣に座る。
お互いに言葉が途切れる。冷たいさざ波の音を数え聞く。
「平和ですね」
ポツリと久能山の真恒が言った。
「そうですね〜」
と、深く考えもなしに私は答える。
確かにそう言って差し支えのない時間が流れている。吐く息が白くなるほど冷えることを除けば。
「だけど、平和そうに見えても、今世の中は大変……みたいですね」
「大変……?」
「目には見えない厄災が、みんなの平穏な暮らしに忍びよっている……のだそうです。私はこんな風なので、そういうことはよくわからないまま呑気に暮らしていたんですけど……どうも、大変みたいです」
「そう……なんですか」
久能山の真恒は『厄災』と言葉を濁したけれど、そして私自身わからないフリをしたけれど、私にはそれがなにを指すのかよくわかった。
「このままもっと大変なことになったら、やがて誰もが家の中に閉じこもってしまって……満足に往来も歩けなくなってしまうかもしれない。家族、親類、お友達の顔も見にいけなくなってしまうかもしれない。そう聞きました。そんな風には……なって欲しくないなあ。今年は……なんとかなりませんか? せめてもう少し、明るい兆しを見せてはいただけませんか? そんなことを御来光に向かって語りかけていたら……いつの間にか随分時間が経っていました」
久能山の真恒の口調は辿々しく、小さな声はともすれば海風にかき消されてしまいそうだったけれど、私はその言葉の1つ1つから彼女の人となりのようなものを、勝手に感じ取っていた。
「あなたは、優しい人なんですね」
だから感じたままを口にした。
「いいえ。私は荒事が苦手なので……こんな風に祈ることくらいしかできないんです」
浜の砂がついたのか、久能山の真恒は一瞬だけ眼鏡を外して袖でレンズを拭いた。
眼鏡の下の素顔は、残念ながら眩い朝日でよく見えなかった。
「ところで……」
眼鏡を掛け直し、久能山の真恒が言う。
「はい?」
「……私、また頭がボーッとしてきまし……た……」
「ちょ、ちょっと! 大丈夫ですか!? あ! 唇が真っ青! 体冷たッ! ガクガク震えてる! も、もう移動しましょう! どこかでお汁粉でも飲んで暖をッ!」
「お……お構いなく……」
「構いますよ!」
以上、今年は健やかな良き年になりますようにと願う御華見衆観察方より報告