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巫剣観察記

九字兼定?

九字兼定?

2月の初旬、東京は例年にない寒さに見舞われ、昨夜未明から降り始めた雪は関東一面を白く染めた。

「おーさぶさぶっ。大寒はもう過ぎたっていうのに」

文句を垂れながらも私はこうして早朝から散歩をしている。まだ誰も踏んでいないまっさらな雪の上を歩く愉悦は早起きと寒さに耐えるだけの価値があるのだ。
人通りは少なく、わずかな喧騒も雪に吸収されて、常にはない静けさが町を支配していた。
歩く、歩く。上野駅を通り過ぎてもまだまだ歩く。

「凍ってる!」

不忍池に張った見事な氷に思わず声が出た。私の声に驚いて近くの木立からスズメが2、3羽飛んで行った。
足を止め、しばし見入る。

「……乗れるかな? あわよくば滑れるかな?」

欲望が口をついて出てしまう。

「ま、さすがに人が乗れるほど分厚い氷ってことはない……よ……ね」

自分の考えを一笑に付し、その場から立ち去ろうとした時、私はその人影に気がついた。

「あ!」

池の真ん中――氷の上に人が立っている。
ぼうっと、何をするでもなく。

「乗れるんだ……じゃなくて! あ、あの! 危ないですよー!」

慌てて声をかけた。

「そんなところに乗ったりしたら氷が!」

けれど相手は一向に動こうとしない。ここから距離にして20メートルほど。声が届いていないはずはないのだけれど。
もしかすると好奇心から池の中央まで行ったものの、怖くなって身動きが取れなくなってしまったのかも知れない。

「……よ、よし!」

私は両手で自分の頬を叩いて気合を入れてから、氷の上へ足を踏み出した。

「待ってて! 今助けに行きますか……らぁ!?」

2歩目で滑って転んだ。尻餅をついた下でミシと小さな音が鳴った。
落ちる――。
一瞬背筋が寒くなったが、幸い氷が破れるようなことはなかった。
その後も3歩に一度足を滑らせたけれど、どうにか池の中央までたどり着くことができた。

「た、助けにきまし……たー」

無様に仰向けで滑り込みながら相手に声をかけた。
たどり着くのに必死でちゃんと見ていなかったけれど、近くで見るとその人物は黒いフード付きの外套ですっぽりと体を覆っており、なんとも謎めいて見えた。
しかも外套マントから覗く顔は雪のように白く、尚且つ人形のように美しい。

「お、女の……子?」

少女はなんだか――とても危うい瞳をしていた。

「うるさいよ君」

まだ幼さの残るその少女は魚の腹わたでも見るような目で私を見た。その辛辣な視線を一身に浴びながらなんとか立ち上がる。

「さっきから騒がしいなと思ったら」
「ご、ごめんね。だけど危ないって思ったから……」
「危ない? なんで?」
「え? いや」

思わぬ質問に言葉が詰まった。皮肉でも強がりでもなく、この少女は本気で何が危ないのかわからないという表情をしている。

「だって氷だよっ。いつ割れて水に落っこちちゃうかわからないんだよっ」
「氷って割れるの?」
「割れ……ますよ」

当たり前のことを答えてしまった。いや、別に私は間違っていないはず。氷は割れる。そういうものだ。いや、問題はそこじゃなく。

「まさか、氷……見るの初めてなの?」

こちらの問いに少女はどちらとも答えなかった。

「あのね、今は気温が低くて池の水が凍ってるけど、これから日が高くなってくると氷はどんどん溶け始めて、バリバリ、ボチャ?ン! 冷たい冷たい池の中に真っ逆さまだよ! そしたら寒いよ。風邪引いちゃう!」

それどころか運が悪ければ溺れてしまうことだってあるかも知れない。
少女は大袈裟な身振りを交えた私の話を幾分興味深そうに聞いていたが、あらかた納得するとまたフイっと視線を外して俯いてしまった。
いや、俯いたというより、己の足元の氷を改めて観察しているようだ。

「だからもう戻りましょう。ね?」
「割れたって、別にどうでもいいじゃないか」

彼女の不穏当な発言に私は耳を疑った。

「足元が割れて落っこちて、それで命が終わったって別に大騒ぎするようなことじゃないと思うけど」
「何を言って……」
「安全な場所を選んで歩いたって、結局いつかどこかで穴に落っこちるんだよ。誰だってね。でも、落ちる時は何をやったって落ちない。落ちたいって思ったって――落ちないんだ」

こんな風にさあ。
そう言って少女は足の裏で氷を強く踏みつけた。何度も、何度も。

「や、やめて! 割れるっ!」

私はとっさに体を縮こまらせて目を瞑ったが、氷は割れたりしなかった。そんな情けない私の姿を横目で見て、少女は一瞬泣き笑いのような表情を作った。

「ほらね」

私は今更ながらにこの少女のことが恐ろしくなってきた。
いったいこの子は……誰?
固まった私と少女の間を鋭く冷たい風が吹き抜けていった。それを合図に少女は踵を返す。

「でもそろそろ寒くなってきたし、僕は戻ろうかな」

氷や私になどもう興味をなくしてしまったとでもいうように、少女は池の縁に向かって歩き出す。
池を泳ぐ鯉たちの豊かな色彩が氷の下で弧を描いている。

「ま、待ってー! 私も!」

私も必死になって彼女の後に続く。
ご心配なく。私はもう氷上を歩くコツというものを心得ている。そう、四つん這いになってアメンボの動きで進めばいいのだ。

「気持ち悪い動き」

編み出した技に対する少女の評価は辛辣そのものだった。

「情けないなあ。何も水の上を歩くってわけでもないのに」
「そ、そう言われても……」
「ほら、こうだよ。右足を出して、次に左足を出す。それだけ。何が難しいの?」

そんなことは大抵の人がわかっていることなのだが、この体勢では反論もできない。

「ほら、簡単。それにこんな風に飛び跳ねたって全然へい……きゅ!」
「あ! こけた!」

しなやかに氷上を進んでいた少女がそれはもう見事に滑って転んだ。
その拍子に外套のフードがふわりと外れる。
フードの下から艶やかな濃藍の黒髪が現れ、冷たい氷の上にはらりと広がった。
ほんの1秒か2秒、無言の時が流れた。
少女はむくりと起き上がり、こちらを振り向く。

「……見た?」
「見……」
「見てない。だよね?」
「え」
「何も見てない。いいね?」
「……見てない」
「うん。だよね」

何事もなかったかのように外套をパンパンと払うと、少女は氷の上から池の縁に上がった。
見てはいけないものを見てしまった。
それはそれとして、私も後に続こう。
そう思って再度踏み出した時、背後でピシリと大きな音が鳴った。
その瞬間確信した。これはまずい。

「わ、割れる割れる! 待って! 今上がるからもうちょっと待って!」

ほとんど転げ回りながら大慌てで池から避難した。
肩で息をしながら顔を上げると――謎めいた少女の姿はもう見えなかった。

「あの子……」

呼吸を整えながら、改めて先ほど目にしてしまった“物”を思い返した。
盛大にこけた少女の姿……ではなく、その瞬間に外套の下にはっきりと見えた刀のことを――だ。
それは尋常とは思えない存在感を放って少女の腰に携えられていた。
あれは見間違いなんかじゃない。

「あの子はまさか……?」

思わず雪に残っているはずの少女の足跡を探したけれど、いつしか池の周辺は起き出してきた人々が多く行き来していて、もうどれが彼女の足跡か判別できなかった。
このことをどう報告したものかと迷う。
考えがまとまるよりも先にくしゃみが出たので、ひとまず暖を取りに戻ることにした。

以上、結局風邪を引いた御華見衆観察方より報告