
「止まって」
へし切長谷部は手のひらでこちらを制するとその場にゆっくりしゃがみ込んだ。
彼女は降り積もった新雪の表面を静かに観察している。
「近くにいる」
「え? どうしてわかるんですか?」
「見ろ。こいつの足跡、指が開いてきている。疲れている証拠だ」
「……そういうものなんですか」
彼女が指し示したのは滑らかな雪の上についたウサギの足跡だった。
「逃げ回って疲れている……のはわかりましたけど、それならもう少し進んだ先にいるのでは?」
現に足跡は前方に向かってまだ続いている。
「違う。奴らは疲れてくると“止め足”をするから」
「止め?」
「止め足。たった今自分がつけた足跡の上を上手に辿って後戻りをする技。そしてそれなりに戻ったところで脇の茂みに飛び込んで姿を消す」
つまりこのちょうどこの辺りに隠れて体力を回復している可能性が高い、とへし切長谷部は言った。
「へ!? 勉強になります!」
「声、大きい」
「すみません……」
3日前、へし切長谷部の調査を命じられた私は早速彼女の居所を探った。
その結果へし切長谷部は禍憑討伐のため遠征しているとわかり、私は彼女を追った。
追って追って――辿り着いた先は、東北にある雪深い山中だった。
「学生さん、少しの間じっとしてて」
今、私は学生――ということになっている。
山岳信仰の研究のために山に入り、遭難しかけたところを彼女に救われたという体で行動を共にさせてもらっているのだ。
私に向けて注意したかと思うと、へし切長谷部はひと足飛びで右手の茂みへと飛び込んでしまった。
次に彼女が茂みから出てきた時にはその手に丸々と太ったウサギがぶら下がっていた。時間にして10秒も経っていなかったと思う。
「これで今日の食料確保ですね!」
「これ、枝に吊るしておいて。すぐに皮を剥ぐ」
「ヒィ……わかりましたぁ」
残酷だとは思うがこれも生きるためだ。
「吹雪始めた。そろそろ戻ろう」
へし切長谷部はその場で手際よくウサギを解体すると、皮を雪に埋め、肉を手に取って歩み出した。
真っ白な森をしばらく進むと何気ない場所に小さな穴が開いているのが目に止まる。自然の地形を利用して作ったカマクラだ。目下そこが私たちの陣地になっている。
中に入ると香ばしい香りが鼻をついた。
「おっかえり~! ひと足先に焼き始めといたよ~!」
「わぁ! 魚! 取れたんですね!」
「あたしにかかれば大量大量~」
焚き火の前で私たちを迎えたのは安宅切だった。彼女も巫剣で、へし切長谷部の任務に同行しているという。
「どうよへっしー。脂の乗ったこのお魚!」
「……美味しそう」
「でしょでしょ! あ、そっちも食糧取ってるじゃん! 今日は豪勢だね~!」
ご覧のとおりと言うか、この2人はいっしょに行動している割に性格が真逆だ。へし切長谷部が1日に喋る量を、安宅切はここに戻ってからのほんの少しの間で喋り終えてしまった。
食事を終えた頃には外はすっかり吹雪いていた。私は焚き火の前で二の腕を抱き、じっと寒さに耐えていた。カマクラのおかげで風は凌げているが、それでもこの時期の東北の山の寒さは骨身に染みる。
へし切長谷部は先ほどから出口付近でじっと外の様子を伺っている。
「まだ狙っている獲物は出ませんか?」
その背に声をかけてみる。
「気配は感じている。でも、相手はすごく慎重。簡単には尻尾を掴ませない」
「もうかれこれ3日。向こうも粘るよね?。東京あたりに出るやつだとここまで慎重なのはそういないんだけど、やっぱり厳しい自然の中で自然と進化していってるのかな~。自然なだけに~」
安宅切は腹を満たして気分も満たされたのか、すっかり体を弛緩させている。
「私にはよくわからないですけど、この山にはよっぽど凶悪な猛獣がいるんですね」
立場上禍憑のことは知らないふりをして話を進める。
「うん。たくさんの猟師が犠牲になってる。でもここまで厳しい雪山に乗り込んで相手を探して退治するのは大変」
そうだ。相手は厳しい雪山を縄張りとしている禍憑だ。遭難や凍傷の恐れもある中、相手の土壌で戦いを挑むのはいくら巫剣といえど危険だろう。
「それでもへし切さんは躊躇わずここへやってきた……んでしたよね」
「任務だから」
彼女の返答は簡潔だった。
どんなに寒くても辛くても、眉一つ動かさず粛々と己の仕事をこなす。その徹底ぶりは見ていて時に怖くなるほどだ。
「学生さんごめんね~。本当ならすぐにでも山を下ろしてあげたいんだけど、今下手に外を出歩くと危ないんだ。どこからあいつが出てきてガブーってされるかわからないから……お~さぶさぶ……」
安宅切がトロンとした目でモゾモゾと私の隣に身を寄せてくる。眠くなってきたらしい。
「あたしも早く街に戻りたいな~。そしたらまたたくさんおしゃれするんだ~」
「安宅切さんも任務だから仕方なく……ですか?」
「んー? 任務? 違う違う。本当はへっしー1人で行くことになってたの」
「え、じゃあ安宅切さんはどうして」
「えへへ。へっしー1人じゃ心配だったから、とっさにあたしも行きますーって言っちゃったんだよね~!でもまさかこんなに寒いとは~。えへへ」
「へし切さんのために……」
「あたしはへっしーと違って弱音も愚痴もちゃんと言うけどねっ」
安宅切はそう言ったけれど、仕事でもなんでもなく、友達のためだけにこんな厳しい場所まで来て何日も過ごすなんてこと、私にはできそうもない。
その時、外の吹雪が一層強まり、私は思わず肩を竦めた。
ビョウと鳴る風。
へし切長谷部がわずかに身をかがめる。
「あ、あの……へし切さ……」
「安宅」
「へっしー」
動揺する私をよそにへし切長谷部と安宅切は互いに声を掛け合い、刀の柄に触れた。
さっきまであんなに眠そうにしていた安宅切も人が変わったように張り詰めた空気を放っている。
「出た」
どちらかがそう言った。
2人はカマクラの奥の私を振り返り「ここにいて」と口の動きだけで伝え、音もなく外へ飛び出していった。
激しい吹雪に遮られて2人の姿はすぐに見えなくなってしまったが、私は確信していた。
確かに今回の相手は手強いのかもしれない。けれどこの2人が負けるはずがないと。
どこまでも己に厳しい巫剣と、そんな彼女にどこまでも優しい巫剣。2人が力を合わせれば、禍憑には想像もできないほどの力が発揮される。
巫剣とはそういうものなのだと、私は知っている。
以上、いまだに霜焼けに悩まされている御華見衆観察方より報告