
ここは柴又は帝釈天参道。突き抜けるような晴天の下、往来は人々の喧騒で華やいでいた。猫は桶の上で眠りこけ、最近開店した餅屋の前には行列ができている。それは絵に描いたような平和な昼下がりだった。
そんな喧騒から少し距離を取るようにして、路地の間から通りを鋭く見つめている者があった。
その女性はきりりと口を閉じ、美しい一本松のように姿勢よく立っていた。その背丈は周囲の人々と比べても優に頭一つ高く、どこか冒しがたい気品と知性を感じさせる。
「彼女が……大兼光。今回の観察対象……」
監察方である私の任務は彼女、大兼光を文字通り監察し、その特性を記録することである。
大兼光は朝からああしてあそこに立っている。だが彼女には隙がなく、簡単には接近できそうになかった。そこで止むを得ず私は、こうしてかなり離れた場所から望遠鏡にて盗み見るにとどめている。
ふと通りかかった女の子が大兼光を見つけ、声をかける様子が目に入った。私は読唇術を用いてそれを解読した。
「大兼光様、こんにちは!」
「ああ。良い日和だな。今日も弟たちの面倒を見ているのか。関心だな」
大兼光は優しく応じている。女の子の後ろには5、6歳ほどの小さな子供が3人くっついていた。
「はい。これからあそこのお餅を買いに行くところなんです。ご存知ですか? あのお店大人気なんですよ」
「そうなのか。どうりで行列ができているわけだ」
「大兼光様はもしかしてお仕事中ですか……? なんだか少し怖い顔で周りを見つめていたみたいですけど……」
「フ……そう不安そうな顔をするな。こういう人で賑わう場所はどんな輩が悪意を持って現れるかわからないからな。念のために警戒していただけだ。皆が楽しい気分でいるとき、誰か一人くらいは陰で安全のことを考えていた方がいいだろう?」
「大兼光様……」
大兼光の言葉に女の子はポーっと頬を染め、素直な憧れと、ちょっと危うい好意の眼差しを注いだ。
「それより行くなら急いだ方がいい。せっかくの餅が売り切れてしまうぞ」
「あ、そうでした! それじゃ大兼光様、失礼します! みんな、行こう!」
元気よく駆け出していく女の子とその兄弟を見送りながら、大兼光は眩しい朝日でも見つめるみたいに目を細め、暖かい微笑みを浮かべた。
その知性と慈悲と気高さの混在する表情に、思わず私もため息を漏らした。
「ふはぁ……。な、なんかあの人……かっこいい」
大兼光は平和を享受する人々の陰で人知れず禍憑を警戒し、ああして見張りを続けていたのだ。職務に忠実で、決して手を抜かず、平和を願い、人に好かれている。
「巫剣の鑑のような人だ! ここ最近、ヘンな癖のある巫剣ばかりだったから余計に感動……」
などと一人で噛み締めたあと、よっこらせと改めて望遠鏡を覗き込んでみたら、もうそこに大兼光の姿はなかった。
「えっ? えっ!? どこ!?」
まさか気づかれたか、と焦りながら望遠鏡を縦横に振って大兼光の姿を探す。
「あ! こっちかな……? ギャー!」
突然獰猛な牙を持った恐ろしい禍憑の形相が望遠鏡に大写しになり、私はその場にひっくり返った。
「ま、禍憑! 急に出たわね!!」
遅れてその近くに大兼光の姿を見つける。彼女が立っているのはもといた場所からそうは離れていない呉服屋の前だった。
禍憑たちは建物や塀などの影という影から湧き出るかのように、次々と通りに姿を現す。呉服屋の店主は反物を放り投げて店の奥へ逃げてしまった。
大兼光は刀を抜き、禍憑を威嚇するように腹から声を出す。
「やはり現れたな禍憑。罪なき人々にその牙を突き立てんと集まってきたようだが、そうはさせん。この先へ進みたいなら某を倒してから行け!」
読唇術など使うまでもなくその声は私の耳にも届いた。
「出来るものならな!」
構えた刀が日光を受けて輝く。大磨上によって大太刀から太刀へと変わったとはいえ、その刀身は長大だ。
「参る!!」
□
決着はあっという間だった。
闘いの中での大兼光の冷静な判断力と柔と剛を兼ね備えた剣撃は、禍憑を一体たりとも寄せつけなかった。
危機が去ったことを知った人々が早々と歓声をあげている。
「大兼光様! 流石です!!」
先ほどの女の子も黄色い声援を投げている。
しかし歓声の中心で当の大兼光はどこか居心地が悪そうだ。
「あなた様のおかげで助かりました!」
危うく店を潰されるところだったと、呉服屋の店主が深く頭を下げる。
「何かお礼をさせてください!」
「いや……そのようなことは」
「遠慮なさらず! そうだ、着物を一着設えてお贈りしましょう! こちらの花筏などいかがでしょう?」
「着物なんて……け、け、結構です。某は仕事を果たしただけで……ではこれにて!」
「あ、お待ちを!」
軽い押し問答の末に大兼光は足早にその場を去ってしまった。
私も急いで彼女の後を追うことにした。
□
人目から逃れた大兼光は江戸川の河川敷にたどり着いていた。矢切の渡し舟が音もなく川を渡っていく。
私は彼女に気づかれないように低くしゃがみ、草むらの隙間からそっと様子を覗き見た。
「わ、わ、わたしは……!」
大兼光はその場にしゃがみこむと――おもむろに足元の草をむしり始め、悔しそうに言った。
「ただ……人気のお餅を買いに来ただけだったのに……!!」
私は思わず「は?」という声を漏らしそうになって慌てて口を押さえた。
「また! 今日も買えなかったぁ! 朝から頃合いを伺ってたのに! だってだってあんな風に真っ直ぐな眼差しでお仕事中? なんて言われたら否定できない! 今更あの子供たちといっしょになって餅屋の行列に並ぶなんてできないぃぃ! わたしみたいな大きい女がウッキウキで並んでるなんて、みんなヘンに思うに決まっている……!」
おそらく私は今、見てはいけない場面を見ている。聞いてはいけない彼女の本音を耳にしてしまっている。
文武両道、知性と武力の理想的両立!
そう思われていたみんなの大兼光が!
「それにそれに! 着物をどうぞなんて言われても! こんな大きな女に似合う着物なんて……。どんな可愛い柄でも台無しだ! そうに決まってるうううう……! わたしなんてわたしなんて!」
どうやら結論は出てしまったようだ。
大兼光――周囲の評価と自己評価がまったくさっぱり釣り合っていない。
やっぱり今回の巫剣も一筋縄では行かなかった。
私は何も言わず、そっとその場を離れることにしたが、ふと思い出して懐を探った。
実は長丁場の見張りに備えて朝一番で買っておいたのだが、今の今まで緊張でそのことを忘れていた。
私は『大兼光さんへ』と一筆書いて、人気店のお餅をそっと彼女のそばに置いて河川敷を後にした。
以上、御華見衆観察方より報告