「避難勧告は万全だと言ったのはどこの誰ですか! まだこの子がいたじゃありませんか! まったく!」

風を切り、夕闇を走る。彼はしきりに耳を動かして周囲の音を聞こうと努めた。
迫りくる脅威を、悪意に満ちた存在の気配を探ろうと。
それが自分を守ろうとしてくれている彼女にできる唯一の恩返しだと思った。
――ニャア
気配を感じるよ、と彼は彼なりに伝えた。

「むむ。またそんなかわいらしい声で鳴いてっ! そんな目で見てっ! わっち、猫にだけは弱いのです……」

彼女は名を青木兼元と言った。先ほど震える彼を胸元に抱き上げた際、律儀に名乗ってくれたのだ。巫剣だと言う。それがなんなのか彼にはよくわからなかった。
なんせ彼は長屋の縁の下に暮らす平凡な猫なのだ。名前はまだない。
今日までそれなりに平和に暮らしていたのだが、突如長屋街にあの恐ろしい者たちが現れて大変なことになってしまった。住んでいた人間たちは皆逃げ出してしまった。
そうして彼だけが取り残されていたのだが、そこへ現れたのがこの娘、青木兼元だった。

「ここまでくればひとまず安心でしょう。さあ、ここへ隠れていなさい。わっちが禍憑を退治するまで出てきてはいけませんよ」

青木兼元は目についた米俵の隙間に彼を下ろすと、キッパリとそう言って自分はふたたび来た道を戻って行った。
その背中に鳴きかけると彼女は名残惜しそうに何度か振り返っていたが、それでも立ち止まらなかった。自分には仕事なんてないけれど、彼女には彼女のなすべき仕事があるのだろうと彼は思った。
ふたたび一匹ぼっちになった。不安は不安だが、彼女の言うとおりここでしばらく大人しくしていよう。
体を丸めてその場に収まる。時おり、遠くで人の悲鳴らしきものが聞こえた。
彼女ははたして大丈夫だろうか。あんな恐ろしいバケモノを相手に無事でいられるだろうか。知らずとまた小さな体が震えてくる。
と、額になにかが当たった。雫だ――。
こんな時に雨まで降り始めたかと頭上を見上げて、思わず目を見開いた。
長屋の屋根の上にあのバケモノがいて、そこからまっすぐこちらを覗き込んでいたのだ。雨かと思ったそれはバケモノの大きな口から垂れるヨダレだった。
いつの間に――。もしやバケモノは群をなしていたのか?
一瞬のうちに様々な思考がよぎったが、彼にできることはなにもなかった。
ただ妙な確信だけがあった。
ああ、このバケモノは目につく動く物は無差別に襲い掛かるだろう。それが人間だろうと猫だろうと容赦なく。腹を空かせてばかりの短い自分の生涯もここまでか――。

「いやだわ」

覚悟を決めかけた時、すぐそばで声がした。

「気まぐれにしもじもの者の暮らしを見に来てみれば、こんなところにも下賤げせんな禍憑がうろついていますのね」

彼も禍憑と呼ばれたバケモノもそちらを向いた。
優美な、鋭利な、絢爛にして峻烈な気配を放つ美しい女がそこに立っていた。
青木兼元が戻ってきてくれた!
とっさにそう思った。けれど彼はすぐに混乱することになる。
違う。これは違う。青木兼元じゃない。
確かによく似ている。けれど彼の鼻はごまかせない。

「このわたくしを見下ろすなんて、身の程を弁えなさい」

青木兼元によく似た、けれど決定的に何かが違うその者は腰に携えていた刀に手をかけ、バケモノを――斬った。
斬った――のだろうと思う。
彼女が刀を抜く瞬間も、屋根の上で唸っていたバケモノに飛びかかる瞬間も、彼には認識できなかったのだ。ただ気がつくと女は屋根よりも高く舞っており、勝負は決していた。
バケモノは地面にドサリと落ち、そのまま朽ち果てた。
凄まじい剣速と剣圧によってか、遅れて近くの木立が途中から袈裟斬りになって幹ごと倒れてきた。それが彼の方へ落下してくる。避難しようと、彼はとっさに飛び上がった。
飛び上がって、着地した先は――得体の知れぬその女の腕の中だった。

「あら? どこから飛び出てきたのかしら。わたくしに触れるなんて100年早くてよ」

女は見る者を凍えさせるような眼差しを彼に向けた。普通の人間ならそれだけで進んで平伏するか逃げ出すかしただろう。けれど生憎彼は猫だった。
――ニャ?

「ふん。なんて小さくて貧弱な存在なのかしら。触れているだけでこの身が汚れるわ。……何かしら? ご不満? そんな目で見たって知らないわ。早くわたくし目の前から消えなさい」

だがその言葉に反して、彼女はなかなか彼を手放そうとしない。それどころか胸元に彼を抱き寄せ、そのフワフワの毛並みを確かめるような素振りさえ見せた。
もう一度ニャアと鳴くと、彼女は我に帰ったように顔を上げ、少々乱暴に彼を放り出した。

「いいわねけもの。次にわたくしの前をうろちょろしたらその時は容赦しませんわよ」

そんな言葉を残して彼女は優雅にその場を去った。
その背中が見えなくなった頃、反対側の通りから「猫~!」と心配そうな声がした。
あ、今度は間違いない。青木兼元だ!

「こっちはもう片づいたから安全ですよー! 出ておいでー!」

不思議なこともあるものだと思いつつ、彼は自分の己の無事を知らせるべく一際大きく鳴いた。

今はまだ、銘治政府も御華見衆すら彼女の存在を知らない。

強く恐ろしい“姫君”がくすぶる暗き炎を胸に宿し、いよいよ動き出そうとしていることを、まだ知らない。
電撃G'sマガジン 2020年9月号掲載