「避難勧告は万全だと言ったのはどこの誰ですか! まだこの子がいたじゃありませんか! まったく!」

風を切り、夕闇を走る。彼はしきりに耳を動かして周囲の音を聞こうと努めた。
迫りくる脅威を、悪意に満ちた存在の気配を探ろうと。
それが自分を守ろうとしてくれている彼女にできる唯一の恩返しだと思った。
――ニャア
気配を感じるよ、と彼は彼なりに伝えた。

「むむ。またそんなかわいらしい声で鳴いてっ! そんな目で見てっ! わっち、猫にだけは弱いのです……」

彼女は名を青木兼元と言った。先ほど震える彼を胸元に抱き上げた際、律儀に名乗ってくれたのだ。巫剣だと言う。それがなんなのか彼にはよくわからなかった。
なんせ彼は長屋の縁の下に暮らす平凡な猫なのだ。名前はまだない。
今日までそれなりに平和に暮らしていたのだが、突如長屋街にあの恐ろしい者たちが現れて大変なことになってしまった。住んでいた人間たちは皆逃げ出してしまった。
そうして彼だけが取り残されていたのだが、そこへ現れたのがこの娘、青木兼元だった。

「ここまでくればひとまず安心でしょう。さあ、ここへ隠れていなさい。わっちが禍憑を退治するまで出てきてはいけませんよ」

青木兼元は目についた米俵の隙間に彼を下ろすと、キッパリとそう言って自分は再び来た道を戻って行った。その背中に鳴きかけると彼女は名残惜しそうに何度か振り返っていたが、それでも立ち止まらなかった。自分には仕事なんてないけれど、彼女には彼女のなすべき仕事があるのだろうと彼は思った。
ふたたび一匹ぼっちになった。不安は不安だが、彼女の言うとおりここでしばらく大人しくしていよう。