菊一文字則宗は豊前国から始まり長崎へ通じる脇街道、長崎街道を西へと進んでいた。
姿勢もよくきびきびと歩いていくその姿に、地元の農夫も思わずクワを止める。
かつての持ち主を亡くした後、菊一文字は1人諸国を巡り歩くようになっていた。
あの激動の時代、主の力になれることは喜びの1つではあったが、元々争いを好まない性格だった彼女は人の世に疲れ、戦いの場から離れるとしばらくの間は静かに過ごしていた。それでも結局なにかに急き立てられるように、こうして旅に出てしまっている。そんな自分を彼女は笑った。
途中、旅の親子を追い抜いた。まだ10にもならない少年が疲れた様子の母の手を取り、懸命に歩く姿が微笑ましい。菊一文字則宗は思わず振り返り、子に小さく手を振った。

「お若いのにお1人でどちらまで?」

菊一文字則宗から無害さが滲み出てでもいたのか、母親の方がにこやかに尋ねてきた。

「はい。ちょっと肥前まで。噂の硝子工芸をひと目見ようと思いまして」
「その刀は護身用に?」
「ええ、そんなところです。でももうずっと、抜いてもいません。構え方も忘れたかも」

冗談めかして笑いを取る。

「私たち親子は長らく大阪に住んでいたのだけれど、事情があって故郷の長崎に2人で戻るところなんです」

少年の方へ目を向けると、彼は気恥ずかしそうにそっぽを向いている。
旅は道連れ。そのままなんとなくその親子と足並みをそろえて歩いた。
歩きながら思う。昔に比べて、こういう人たちが心配なく旅のできる世になったんだなと。
とはいえ、まだまだ不穏な影はある。夜盗や山賊もいるところにはいるし、猛獣にも気をつけなければならない。それよりも恐ろしいバケモノの類の噂も耳にする。
泰平の世などというものがこの先本当に訪れるのか、時々わからなくなる時がある。

「あの、そこの神社で少し休んでもいいでしょうか?」

山際の農道を歩いている時、母親が右手の林を指して言った。日差しに当てられて参ったという様子だった。

「神社、ですか?」

少し進むと色の落ちかけた鳥居と石段が見えてきた。石段を登りきると境内がほどよく木陰になっていたので、3人はそこに腰を下ろすことにした。
周囲は濃い緑に包まれ、野鳥の声と林の葉音以外にはなにも聞こえない。

「お水、よかったらどうぞ」

親子に自分の水を分けてやり、それから暇つぶしにと旅先での出来事に脚色をして面白おかしく話してみせた。親子は笑い、菊一文字則宗も笑った。
だが話の途中で突然菊一文字則宗が笑みを消した。

「それ以上近づいてこない方がいい」

急なその言葉に母親は戸惑う。

「そこのあなたたちですよ。さっきから神社の裏手で様子を伺っていましたよね?」

そう尋ね、脇に落ちていた枯れ枝を拾い、立ち上がる。

「……勘のいいお嬢ちゃんだ」

彼女の言葉通り、神社の裏手からぞろぞろと3人の男が姿を現した。短刀、ナタ、鎌。それぞれ手に刃物をぶら下げている。真っ当な素性の者たちでないことは明白だった。

「命が惜しけりゃ有り金置いてきな」
「追いはぎですか。こんな真昼間から精が出ますね」
「ご明察だ。なんならその腰にぶら下げた刀で抵抗してみるか? ああ?」

男たちは勝ち誇った表情のまま刃物をこちらへ突きつけ、近づいてくる。

「刀を抜くつもりはありません。代わりにこれでお相手しましょう」

スッと掲げたのは先ほど拾い上げた一振りの枯れ枝だった 。

「なめてんのかコラァ!!」

左右の男が同時に凶器を振り上げた。
だがそれは永遠に振り下ろされることはなかった。
彼女の目にも止まらない突きによって男たちの手から凶器が弾かれ、背後の樹木の幹に突き刺さる。そして2人の男はなにが起きたのか理解する前に気絶して、地面に突っ伏していた。

「2人をこんなにしちゃっておいてなんですが、話し合いでなんとかなりませんか?」
「なんなんだテメェは! 話し合い!? ふざけんな!!」
「やっぱり、そうなるよね……」

問答無用で飛びかかってくる男をするりとかわす。
交差した瞬間、男は見えない打撃を首に食らわされ、そのまま石段を転げ落ちていった。決着は一瞬だった。

「ふう……疲れてるから少しでも休憩したかったのに」

何事もなかったかのように枯れ枝をもとの場所に戻し、隅で震えている親子に、向き直った。母親が震えながら口を開く。

「あ、あの……た、助かりまし……」
「あなた、こうやって旅人をここへおびき寄せては毎度金品を差し出させているわけですか。彼らに脅されているのか、根っから盗賊の仲間なのかはわかりませんが、その子の為にもこれっきりにしたほうがいい」
「な、なんで……!」

母親はあっさりと看破されてしまったことへの驚きで目を見開いた。

「長く大阪に住んでいたと言うわりに、あなたには訛りがなさすぎました。それに、気がはやっていたんですかね? この神社が見えるよりも前からそこの神社で休んで行こうなんて言うものだから変だなと思っていたんです。妙に土地勘があるなって。でも、僕の勘違いだったらいいな。そう思ってごいっしょしたんです」
「あ、あ、あんたはいったい……」
「ではこれで失礼します」

菊一文字則宗は立ち上がると少年の頭を撫で、ぺこりとお辞儀をしてから石段を下る。

「……あれ、最後の水だったのになぁ」

少し後悔しながら、旅の先を急ぐ。
だが、いくらも進まないうちに彼女は再び足を止めた。

「あのー、大丈夫ですか? ははぁ、牛車がくぼみにハマっちゃったんですね。ちょっと待ってください。後ろから押しますよ。せーの!」

時代がどうあろうとも、どんな不幸があろうとも、結局自分は人を信じることはやめられないのだと気づく。
菊一文字則宗は彼方の行く先を見つめ思う。
いつかまた心から信頼できる主に出会うことがあるのだろうか。
出会えたとしたらその時は、争いのためじゃなくなにかを護るための刀となりたいと。
電撃G'sマガジン 2019年10月号掲載